新田義貞の戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 09:33 UTC 版)
「南北朝時代 (日本)」の記事における「新田義貞の戦死」の解説
南朝総大将新田義貞は、建武の乱の末期(金ヶ崎の戦い)から引き続き北陸方面で孤軍奮闘を続けていたが、延元3年/暦応元年閏7月2日(1338年8月17日)、藤島の戦いで斯波高経に敗れ、戦死した。 北畠顕家・新田義貞という南朝を代表する名将が相次いで戦死したことで、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立った。
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