新田義貞の追討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 21:36 UTC 版)
蓮覚一族を滅ぼした足利軍は東上して尊氏率いる本隊と合流、翌、南朝:延元元年/北朝:建武3年(1336年)1月には京都の守備についた。しかし翌月、陸奥国から南下してきた北畠顕家により足利軍は敗走を余儀なくされる。九州で勢力を回復した尊氏は再度京都への侵攻を開始。同年4月には湊川の戦いで楠木正成と新田義貞を撃破、6月には入京を果たした。直経もこの一連の足利軍の戦いに参加している。南朝:延元3年/北朝:暦応元年(1338年、越前国を支配する新田義貞を撃退すべく土岐頼貞と共に京を出陣し、同年7月に義貞は藤島で討死している。
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