新田義貞との連携失敗とは? わかりやすく解説

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新田義貞との連携失敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:19 UTC 版)

北畠顕家」の記事における「新田義貞との連携失敗」の解説

延元3年/暦応元年1338年1月2日に顕家は鎌倉出発し1月12日遠江国橋本に、1月21日尾張国到着し翌日黒田宿へと入った対す足利方は守護らをかき集めた軍勢組織し対抗したが、1月28日までに顕家はこれを美濃国青野原の戦い(現、岐阜県大垣市)で徹底的に打ち破る一時総大将土岐頼遠が行不明になるほどの大損害を敵に与えたが、この戦いによる兵力減少疲弊により京攻略諦め2月には伊勢後退した『太平記』物語では、顕家が伊勢ではなく越前向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄取られてしまうことを嫌がったからだと描かれている。 佐藤進一は、顕家とその父親房ともに貴族意識強く武士否定的であったため義貞と合流することを嫌ったからだ、としている。また、この時北畠軍の中にいた北条時行にとって義貞は一族の仇であり、彼が合流強く反対したため合流果たせなかったと解釈した佐藤進一見解について、奥富敬之北畠軍には義貞の次男義興もいたことから、北条時行に義貞への敵意怨嗟はなく、時行が反対したとは考えられない反論している。また『太平記』描写については、顕家は義貞に手柄取られることを嫌がって進軍段取り変えるような人物ではなく、さらに顕家は義貞よりも官職が高いことから、手柄取られるなどとそもそも考えるはずがないとして、明らかに誤りであると指摘している。 義貞と顕家に対立あったかどうかについては、史料からは明確に読み取れない。また、越前へ向かう行程難路であり、峰岸純夫は、その行程困難さから越前に向かう選択肢考えられない指摘する。奥富は、佐藤和彦見解を「正鵠にかなり迫っている」と評した上で、顕家は、わざと寄り道をして、足利注意を引き付けると同時に、義貞が挙兵する時間稼ぎをしたのではないかという見解示している。 一方峰岸はむしろ合流拒んだのは義貞の方で、義貞と北畠親子の間にはやはり何らかの確執があり、両者不信関係にあったではないか推測している。さらには、義貞がいる越前未だ安定しておらず、義貞は上洛よりも越前制圧平定重視していたとも考えられる。この当時足利側の攻勢激しく連帯感取れていた。そのため、義貞も顕家も、目の前の敵の相手をするのが精一杯であり、互いに共同戦線展開できるほどの余裕残されていなかったとも指摘される佐藤和彦は、北畠親房伊勢勢力持っており、勝利したとはいえ疲弊していた顕家は伊勢にある北畠氏関連の深い諸豪族を頼るため伊勢向かった推測した

※この「新田義貞との連携失敗」の解説は、「北畠顕家」の解説の一部です。
「新田義貞との連携失敗」を含む「北畠顕家」の記事については、「北畠顕家」の概要を参照ください。

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