童子切とは? わかりやすく解説

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童子切

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/10 03:07 UTC 版)

童子切
太刀 銘安綱(名物童子切安綱)刀身
指定情報
種別 国宝
名称 太刀銘安綱(名物童子切安綱)
 附 糸巻太刀、梨子地葵紋散太刀箱
基本情報
種類 太刀
時代 平安時代
刀工 安綱
全長 99.99 cm[1]
刃長 80.3 cm
反り 2.7 cm[1]
先幅 1.91 cm[1]
元幅 2.91 cm[1]
所蔵 東京国立博物館東京都台東区
所有 独立行政法人国立文化財機構
番号 F-19931[2]

童子切(どうじぎり[注 1])は、平安時代伯耆国の大原の刀工・安綱作の日本刀太刀)。童子切安綱(どうじぎりやすつな)とも呼ばれる。日本国宝に指定されている。

概要

目釘孔の上、棟寄りに「安綱」二字銘がある

国宝指定名称は「太刀銘安綱(名物童子切安綱)
」で、附(つけたり)として「糸巻太刀、梨子地葵紋散太刀箱」も指定されている[7]

天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされている。[8]

清和源氏の嫡流である源頼光丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの太刀で斬り落としたという伝承から「童子切」の名がついた。享保4年(1719年)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて作成させた『享保名物帳』には、「名物 童子切」として由来と共に記載されている。[9]

現在では制作年代は酒呑童子伝説の時期よりも後なのではないかとの見解もある。刀剣研究家の佐藤寒山は、「大江山物語はフィクションが多く含まれていることは否めないだろう。しかし童子切は享保名物帳にあることでも、同作の安綱在銘の太刀が比較的に多く現存する中で、安綱中第一等の作であるのは明らか」と記している。[10]

作風

刀身:鎬造、庵棟、小鋒つまり腰反り踏張りあり。側肉豊かにつき、鍛えは小板目地沸厚く、沸映り乱れ立ち、地景入る。刃文は小乱れ、足入り、金筋かかり、区上で焼落とす。帽子は乱れて小丸ごころとなり、強く掃きかけて替える。茎生ぶ、先栗尻、鑢目、目釘孔一、目釘孔上棟寄りに銘を切る。[11]

外装:金梨子地蒔絵、赤銅魚子地に桐紋散しの総金具のついた糸巻太刀拵えがあり、総体に肉のよくしまった桃山時代の製作である。[12]

伝来

伝承

慶応義塾大学図書館蔵『しゆてんとうし』には『太平記』からの引用が見られる[13]。『太平記』によると、伯耆国大原五郎大夫安綱が打った太刀であり、坂上田村麻呂鈴鹿御前との戦いに用いた後に伊勢神宮に納められ、頼光が参宮した際に夢中で託宣があり伊勢神宮より下賜った源氏累代の太刀とされる。しかし、その後の渡辺綱牛鬼を切ったという逸話は綱の持つ鬼切に引用されている。また酒呑童子絵巻の中には酒呑童子の首を絶つに用いた太刀をすでに鬼切丸と称すものもある[原 1]

かつて伯耆国会見郡の大原五郎太夫安綱という鍛冶が一心清浄の誠で鍛え、時の将軍・坂上田村麻呂にこれを奉じたものだという。田村麻呂が鈴鹿山にて鈴鹿御前と剣合わせした太刀であり、その後は田村麻呂が伊勢大神宮に参拝の折、大宮より夢の告を受け、御所望有りて御殿へ奉納したという。

源頼光が太神宮参拝の時に夢想があり「汝に此剣を与える。是を以って子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし」と示給された。

大和国宇陀郡大森に夜な夜な妖者が出没するので頼光は配下の渡辺綱に妖者を討つよう命じ、貸し出したこの太刀で妖者の手を切り落とした。綱が妖者の手を頼光に奉じたところ、妖者は手を取り返そうと頼光の母に化けて頼光の家の門を叩いた。頼光が切り落とした手を見せたとたんにそれを掴み、妖者は自分の右ひじに指し合せ長二丈ばかりの牛鬼となった。頼光は件の太刀で牛鬼の頭を切り落としたがその頭は飛び踊り、太刀の切先を五寸食いちぎって半時吠え怒ったあと地に落ちて死んだという。

そののち、この太刀は多田満仲の手に渡り、信濃国戸蔵山にて鬼を切ったという。これにより「鬼切」と称することになったという。 — 『太平記』より大意

軍記物『太平記』の物語では、鬼切と鬼丸の二刀は、新田義貞が藤島で奮戦し戦死した際に所持していたとされる。[14]

また、酒呑童子説話を書いた絵巻や絵詞などの諸本では、源頼光が酒呑童子を斬った太刀として「血吸」(血すい、ちすい)の名前が登場する[原 2][原 3][原 4]

来歴

室町時代には足利将軍家が所蔵していたとされておる[15][16]

『後鑑 巻三百四 義晴將軍記 十八』天文七年七月二日条

七月大二日。葵酉 朝倉宗淳謝御相伴衆献物。仍給御書於彼父子。被下御剣。
御内書案云。七月一日。越前朝倉入道方へ之御内書可致調進由。以左衛門佐晴光被仰下候間如此。日付明日二日仰云々。(中略)
太刀一腰(鬼切)到来、名剣無比類候、尤神妙。仍太刀一振(正恒。)遣之。猶晴光可申候也。
七月二日      御判
朝倉弾正左衛門入道どのへ

現代語訳:天文七年(1538年)七月二日、越前大名・朝倉孝景(法号:宗淳)が足利義晴将軍(第12代)へ献上品を進めた。将軍は返礼として太刀(正恒作)を下賜すると共に、献上された「鬼切」太刀について「並ぶもののない名剣で、実に見事なものである」と高く評価している。

新田義貞の戦死地である越前国・藤嶋は、南北朝時代以降、朝倉家の支配下にあった。

一方、北野天満宮所蔵の「鬼切丸」は、最上家伝来の家宝とされており、同家の伝承によれば、延文元年(1356年)に斯波家から出羽の最上兼頼へと伝わったという[17]。この伝承が正確であるとすれば、天文七年(1538年)に足利義晴へ献上された「鬼切」とは、年代的にも経路的にも異なる太刀である可能性が高い。

その後、足利将軍家の政所執事であった摂津晴門(摂津掃部)が、鬼切を含む将軍家の財物を管理していた可能性が指摘されている[18][19]。摂津晴門は永禄七年(1564年)に政所執事に就任し、足利義輝・義昭両代の元服奉行を務めた[20]

江戸時代の天和二年(1682年)には、摂津晴門の四代後にあたる子孫、摂津順乗が、越後守・松平光長の家臣として、幕府に対して本刀の返還を求めたことが記録されている。

葛巻昌興 著,『葛巻昌興日記』[21]

天和二年八月二十一日条
先比御書物奉行不破小左衛門取次を以越後罕人摂津順乘ト申者、京都将軍家ニ仕候摂津掃部末葉之旨ニテ代々ノ口宣且又将軍家御判之物等數通所持候、又号鬼切太刀安綱伝来之旨にて何茂入御披見之処被逐御一覽以後皆以被返下之云々、順乘元は越後守殿使番役相勤之云々

現代語訳:越後騒動の後、摂津順乗は代々将軍家より下賜された文書や御判物、さらに「鬼切」太刀の伝来を証する文書を所持し、これらを呈示して幕府に訴えたが、いずれも受理されずに退けられた。

この訴えは退けられたものの、『白石先生紳書』によれば、松平忠直の正室・勝姫(徳川秀忠娘)が越前松平家へ輿入れした際、守り刀として「童子切」を持参したと伝わる[22]

江戸時代以前の史料においては「童子切」という刀号は見られず、「鬼切」の呼称のみが用いられている。本刀が「鬼切」から「童子切」へと改称された時期については定説がなく、一般には『享保名物帳』(1719年頃)で改称されたとする説が知られている[23]。しかし、これに先行する用例として、松平家伝来期の白鞘書に「童子切 弐尺六寸五分」との記載が確認されており(筆致は女筆で「高田様御筆なるにや」との所見)[24]、また『越後頸城郡高田御城請取之記』にも「童子切安綱刀 太刀拵一通リ有」との記載が見える[25]。以上から、「童子切」の呼称は享保以前に松平家伝来の段階で既に用いられていたことが確認できる。

文化庁および東京国立博物館の解説では、「豊臣秀吉が所持し、徳川家康秀忠を経て越前藩松平忠直に贈られた」[26][27][28]と伝えるが、この伝来経路を裏付ける同時代の一次史料は確認されていない。

江戸時代後期の津山松平家家譜および童子切の刀箱に付された伝来書一通には、天正十二年(1584年)に徳川家康結城秀康へ贈ったと記されている。御伝来書には、徳川家康が松平氏妾腹の長男である結城秀康に与えた旨が記されているが[29][30]、これを裏付ける同時代の一次史料は確認されていない。

延宝8年(1680年)5月、越後騒動により松平光長は改易・流罪となり[31][32]、家財・什器・宝物類は一切が徳川将軍家により押収された[33]。童子切安綱もこの時に将軍家の管理下に移ったと見られる。

その時期、町田長太夫という試し斬りの名人が、六人の罪人の死体を積み重ねて童子切安綱を振り下ろしたところ、六つの死体を切断しただけでなく刃が土壇まで達したと伝わる[34]。刀剣史研究家・福永酔剣は、この町田長太夫を幕府御試御用を務めた松本長太夫の本名と推定し、同人は鵜飼十郎右衛門と同時期に活動した、江戸初期の試斬名人山野勘十郎久英の弟子であったと述べている[35]。他には、この試し斬りは元禄年間津山藩成立以降の出来事という説もあるが、津山松平家の台帳や家譜に記事は見えず、それを示す同時代資料も確認されない。

その後、光長の家財は有栖川宮高松宮第二王女(高琳宮)の家臣によって接収された[36]

貞享4年(1687)頃、光長の流罪中に童子切は長らく手入れされず、刀身に胡麻を散らしたような錆(胡麻錆)が生じたとされる。このため、本阿弥家に送られ研磨が行われた[37]

享保年間、徳川幕府8代将軍徳川吉宗の命により本阿弥家が編纂した『享保名物帳』にも童子切が収録されている。同書では、この太刀が本阿弥家に持ち込まれた当日の朝、江戸神田の筋違橋付近から上野・谷中方面へ多くの狐が移動し、人々は童子切が来たためだと噂したと伝えている。

松平越後守殿 童子切安綱 銘有 長さ弐尺六寸五分 不知代

丹州大江山に住す通力自在之山賊を頼光公此太刀にて討し故と申伝也。秀忠公御物。
高田様越前へ御入輿の刻三位宰相忠直卿へ被進、御長男光長卿へ御伝へ也。極上々之出来、常の安綱に似たる物にあらず。石田と一所に一覧申、格別に正宗をとリたリ、同苗一同こ同意也。広小路三郎兵衛宅へ来る日朝よリ筋違橋辺よリ狐多く出て上野谷中道に行と、考に右童子切来りける故かと申也[38]

昔ノ名剱御所ノ剱
鬼切 摂津守頼光之太刀也、大和国字多郡に大森有、爰にて源に綱牛鬼の手を切る。其後信濃国とかくし山にて鬼を切るとあり、乍去とかくし山鬼のことは日本紀にも無之。伯耆国会見郡大原五郎大夫安綱と申、元桓武天皇時代田村将軍之太刀也、伊勢参宮の時夢の告有て太神宮御所望に依り上る。其後頼光の参詣之時又御夢想有て頼光に被下之。源氏重代となる、童子切の事なり[39][40]

諸家名剣集
伯耆 松平越後守イ越前守
童子切安綱  二尺五寸八分 無代 有銘

酒顛童子ト申賊酋を源頼光公御討取成候故名付、誠ニ天下出群之名刀ニ而右五振之内也[41]

貞享4年(1687年)10月24日、幕府は松平光長の罪を宥免し、官位・旧禄三万俵を復し、12月25日には老中や親族の松平直矩に伴われて登城、徳川綱吉に謁見した[42]。罪は解かれたものの、配流先での厳しい生活による病が重く、以後は政務に復帰せず江戸で余生を送った。宝永4年、母・勝姫の旧邸である高田邸にて93歳で没した。元禄11年(1698年)1月14日、養子の松平宣富が津山藩10万石に封ぜられ立藩。[43]

松平光長には幼少時の逸話が伝わる。夜な夜なうなされ泣くため、御殿医に診せたところ疳の虫と診断され、祈祷や薬も効き目がなかった。困り果てた側近が「童子切を枕元に置いては」と進言し、試したところ、その晩から夜泣きが止んだという。この話は後に「童子切は狐憑きも治す」との俗信にまで広がった。また、童子切が本阿弥六郎右衛門方に預けられていた頃、その近隣で火災が発生し延焼の危険が迫った。すると屋根の上に白狐が現れ、苦悶するかのように転げ回った。家人が「童子切をまだ運び出していない」と気づき、火の粉を避けて持ち出すと白狐の姿は消えたという。この逸話は『享保名物帳』に記された本阿弥彌三郎本家での出来事とは異なり、本阿弥六郎右衛門の分家での出来事とされる。[44]

村山平学『御寶剱 御拝領 御由緒 三品御腰物帳』, 愛山文庫, 津山郷土館蔵, 1812, p.1、附録 p.2

一、童子切 一名鬼切 安綱御太刀 長サ二尺六寸六分(中略)

貞享のむかし、童子切の御太刀、本阿弥六郎右衛門方に、御預ケありしに、彼宅近きあたりに火ありて、既に延焼に及んとするとき、此御太刀仮りに気形の物に現し、人をして示し給ふ事あり、又恵照院様御夜啼の止シ給ふ御事など、都て此御太刀の御家を護り給ふ、神霊の著明き、実に新田源氏の御正統へ伝へ給ふ大器たるが故なり

こののち、童子切は津山松平家に伝来し、松平家では新田義貞の所持と伝わる鬼切として信仰された。[45][46][47]

明治以降も家宝として継承され、1933年(昭和8年)1月23日付で、子爵松平康春の所有名義により国宝保存法に基づく国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された[48]。 さらに1951年(昭和26年)には文化財保護法に基づき国宝に指定された[49]

第二次世界大戦後、津山松平家当主の松平康春朝鮮銀行の整理業務に関与したことや[50]、経済的困難に直面し、売却を決意した。刀剣商の石黒久呂を介して買い手が探されたが、最初に交渉した中島喜代一は戦後の不況で購入を断念した。その後、剣道九段範士で玉利嘉章の名でも知られる玉利三之助が、日本特殊鋼社長の渡辺三郎の資金援助を受けて取得した[51]、。

玉利は後年、事業の不振から童子切を手放す意向を示し、文学者の吉川英治にも購入を打診したが、吉川は「一代限りの保有ではなく、恒久的に動かない場所に収蔵すべき」として購入を辞退した[52]。その後、渡辺三郎が逝去すると、息子の渡辺誠一郎は童子切の所有権を主張し、玉利との間で返還訴訟となった。この訴訟は東京地裁から東京高裁に及び、東京高裁では後に第5代最高裁判所長官となる裁判官で剣道家の石田和外が審理を担当した。係争中は執行吏保管のもと、刀剣鑑定家によって定期的な手入れが行われた[53]

昭和38年(1963年)3月8日、東京地方裁判所が判決を下した[54]。同月30日、童子切は国が2600万円で買い上げることが決まり、玉利三之助から文化財保護委員会へ引き渡された[55]。昭和43年(1968年)6月には正式に東京国立博物館の所蔵となった(それ以前から同館で保管されている)[56]

解説

鬼切との関係

『太平記』に登場する鬼切・鬼丸は、物語上の創作として描かれたものであり、必ずしも実在刀剣に比定される必要はない。そのため、後世にはこれらの名称や由緒が他の刀剣にも伝えられる例が複数生じ、現存する「鬼切」と称される刀剣も童子切以外に複数伝来している。たとえば京都の北野天満宮に伝わる鬼切丸(別名・髭切[57]や、兵庫県川西市の多田神社に伝わる鬼切丸[58]などがある。

一方で、原本明確に足利将軍家伝来とされる鬼切は童子切安綱であり、他家伝来の諸刀に足利氏伝来を称するものはない。しかし近年、2017年までの北野天満宮での展示においては、当宮所蔵の「鬼切丸」について、展示刀の脇に置かれた白色カード式の解説板に「当宮に伝わる刀剣の中で最古のもの、附属の伝来記によれば、源満仲が長男の頼光に与えて以降、源氏、足利氏、斯波氏から出羽最上氏へと、源氏の家系に伝わったといい、鬼切丸の号は、頼光が大江山の酒呑童子退治でこれを用いたからという」と記されていた。[59]この説明文の内容は、足利将軍家に伝来した童子切安綱と、最上家から北野天満宮に奉納された鬼切丸の双方に共通する由緒を含んでおり、このため「鬼切」の名をめぐって両者が安綱の代表作としての由来を共有・競合しているとする見解もある。

また、北野天満宮に伝わる鬼切丸は「髭切」とも称されている[60]。一方、童子切安綱を伝来した津山松平家は、歴史記録において童子切と髭切を同一とする主張を行った例はなく、また『剣巻』に見られる物語要素を付会した形跡も確認されない。

北野天満宮所蔵の「鬼切丸」については、かつては安綱銘を国綱銘に改竄したとされていたが、近年ではこの安綱銘自体も安綱以外の者による後世の追刻と考えられている[61]。刀姿や作風からは備前風が強く[62]、制作時期も伯耆安綱が活動した平安時代中期より1~2世紀後の鎌倉時代に下るとみられており、東京国立博物館の展覧会図録でも平安~鎌倉時代(12~14世紀)とされている。[63]

天光丸との関係

『河内名所図会』によると、天光丸は同じ安綱作の鬼切丸(一名童子切)[注 5]と同鉄で作られた「雌雄の太刀」という。

脚注

原典

  1. ^ 鬼茶屋本『酒呑童子由来』
  2. ^ 岩瀬文庫蔵『酒顛童子絵詞』[注 2]
  3. ^ 大東急記念文庫蔵『しゆてん童子』[注 3]
  4. ^ 慶応義塾大学図書館蔵『しゆてんとうし』(絵巻)[注 4]

注釈

  1. ^ 「童子切」の訓み方については、文化庁[3]・東京国立博物館[4]・『日本刀大百科事典』[5]いずれも「どうじぎり」としている。一方、佐藤寒山は「どうじきり」としている[6]
  2. ^ 室町時代物語大成』第2巻(あめ-うり)
  3. ^ 室町時代物語大成』第2巻(あめ-うり)
  4. ^ 『室町時代物語大成』第3巻(えし-きさ)
  5. ^ 『羽曳野市史』第4巻によると、この鬼切丸は「源家重宝鬼切丸 一名童子切」であると記述がある

刀剣用語の説明

  • 肌立つ - 「肌約(つ)む」の反対語で、地鉄の鍛え肌が目立つものをいう。
  • 地沸 - 刃文を構成する鋼の粒子が肉眼で1粒1粒見分けられる程度に荒いものを沸(にえ)、1粒1粒見分けられず、ぼうっと霞んだように見えるものを匂(におい)と称する。沸も匂も冶金学上は同じ組織である。沸と同様のものが地の部分に見えるものを地沸と称する。
  • 足 - 地と刃の境から刃縁に向かって延びる短い線状のものを足、同様のものが刃中に孤立しているものを葉(よう)という。
  • 金筋、地景、地斑 - 刃中の沸がつらなって線状となり、光って見えるものを指す。同質のものが地の部分に現れるのを地景といい、地鉄の鍛え目に沿って斑紋状に見えるのを地斑という。
  • 匂口 - 地と刃の境目。これが線状に細く締まっているものを「匂口締まる」と言い、その他作風によって「匂口深い」「匂口冴える」「匂口うるむ」等と表現する。
  • 帽子 - 切先部分の刃文のことで、流派や刀工の個性が現れやすく、鑑賞、鑑定上も見所となる。

出典

  1. ^ a b c d 本間順治; 佐藤貫一『日本刀大鑑 古刀篇3【図版】』大塚巧藝社、1966年。 NCID BA38019082 
  2. ^ ColBase国立博物館所蔵品統合検索システム”. 2020年8月31日閲覧。
  3. ^ 太刀〈銘安綱(名物童子切安綱)/〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  4. ^ Swords and Sword-fittings”. Tokyo National Museum (2006年). 2020年8月31日閲覧。
  5. ^ 福永 1993.
  6. ^ 佐藤 1990, p. 116.
  7. ^ 文化庁 2000.
  8. ^ 本阿弥光遜 著, 『刀剣鑑定秘話 2版』, 金竜堂, 1942, p.187(国立国会図書館デジタルコレクション
  9. ^ [https://dl.ndl.go.jp/pid/1182834/1/33 刀剣名物牒」
  10. ^ [https://dl.ndl.go.jp/pid/12424681/1/63 日本名刀100選」
  11. ^ 太刀〈銘安綱(名物童子切安綱)/〉 文化遺産オンライン(文化庁
  12. ^ 至文堂 編『日本の美術 (6)』ぎょうせい, 1966-10(国立国会図書館デジタルコレクション
  13. ^ 『太平記』巻第三十二「直冬上洛事付鬼丸事鬼切事」
  14. ^ 『物語日本史大系 第5巻 (太平記 上)』第20巻 義貞自害事, 1928, p.371, 国立国会図書館デジタルコレクション
  15. ^ 童子切安綱、ColBase: 国立文化財機構所蔵品統合検索システム、東京国立博物館
  16. ^ 『国史大系』第8巻, 1975, p.88, 国立国会図書館デジタルコレクション
  17. ^ 最上家伝来の宝刀「鬼切丸」の謎、執筆:布施幸一「歴史館だよりNo13」より
  18. ^ 摂津賢親 著, 『摂津系譜覚書』, 1983年, p.55, 国立国会図書館デジタルコレクション
  19. ^ 森田柿園編『摂津氏伝書』,『松雲公採集遺編類纂』所収,前田家尊経閣文庫(加越能文庫)蔵
  20. ^ 染谷光廣「織田政権と足利義昭の奉公衆・奉行衆との関係について」『戦国大名論集 17』吉川弘文館、1985年、第4章第2節。
  21. ^ 葛巻昌興 著,『葛巻昌興日記』, 『加賀松雲公 下巻』1909年版所収, 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/781991/1/63
  22. ^ 新井白石『白石先生紳書』, 『新井白石全集』第5巻所収, 1977, p.637)「高田殿の御輿越前に入らせ給ひし時に...御守り刀との事にや」
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  24. ^ 多胡昭夫「津山松平家の刀(上)」『刀剣と歴史』460号, 1971年3月, p.40
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  49. ^ 大蔵省印刷局編『官報』, 1952年1月12日, p.7(国立国会図書館デジタルコレクション
  50. ^ 『貴族院の会派研究会史 昭和篇』, 尚友倶楽部, 1982.3(国立国会図書館デジタルコレクション
  51. ^ 『薫山刀話』, 東京出版, 1974 p.113(国立国会図書館デジタルコレクション
  52. ^ 大草実 ほか著, 『昭和動乱期を語る:一流雑誌記者の証言』, 経済往来社, 1982 p.68(国立国会図書館デジタルコレクション
  53. ^ 『法曹 (5)(271)』, 法曹会, 1973(国立国会図書館デジタルコレクション
  54. ^ 『刀剣春秋』第9号, 刀剣春秋, 1963-4
  55. ^ 『刀剣春秋』第10号, 刀剣春秋, 1963-5
  56. ^ 『刀剣春秋』第73号, 刀剣春秋, 1968-7
  57. ^ 北野天満宮”. 2020年8月19日閲覧。
  58. ^ 伝説・伝承 | 多田神社 公式サイト
  59. ^ 北野天満宮宝物殿特別公開「宝刀展Ⅵ―伝説の太刀「髭切」刀剣乱舞-ONLINE-」2017年7月15日-8月31日
  60. ^ 最上義光歴史館(館長の写真日記 令和5年7月8日付け
  61. ^ 稲田和彦『歴史群像シリーズ 決定版 図説 日本刀大全 II』学研プラス、2007年、p.31。
  62. ^ 末兼俊彦『図録 特別展 京のかたな 匠のわざと雅のこころ』京都国立博物館、2018年、p.214。
  63. ^ 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺-百花繚乱 御所ゆかりの絵画-」プレスリリース(PR TIMES、2025年1月21日)

参考文献

関連項目

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