室町幕府の衰退と納銭方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 09:50 UTC 版)
応仁の乱後には納銭が著しく減少し、明応5年(1496年)には毎月80貫文が請け負われるまでになった。また戦乱により土倉・酒屋はもとより土倉方一衆(馬上一衆)までもが四散し徴税が困難になったため、これまでの山門土倉ではなく俗人の酒屋とされる中村や沢村などが徴収を行うようになった。さらに幕府は「請酒」と呼ばれる小売専門の酒屋や「日銭屋」に対しても課税を行うよう改めて徹底することで税収低下を抑制しようとするが、税収回復は困難であった。その後天文8年(1539年)に天文法華の乱の影響による土倉役・酒屋役の減少への対策として管領細川晴元が明徳以来度々納銭方や公方御倉を務めた延暦寺系の土倉「正実坊」による納銭方業務の請負一任(事実上の独占化)が決定されると、土倉や酒屋がこれに強く反対して幕府への直納(直進)を要求するに至った。だが、晴元はこれを拒絶し、同21年(1552年)には「正実坊」と同じく老舗業者であった「玉泉坊」も納銭方の地位確認を求めて訴訟を起こしたが認められなかった。なお天文8年頃の納銭は月7貫文から10貫文程度にまで減少しており、もはや土倉役・酒屋役は将軍家の要脚を担うのに十分な財源ではなくなっていた。納銭方は天正元年(1573年)の室町幕府解体とともに廃止されるが、当時の正実坊の当主であった正実坊掟運は織田信長によってそのまま徴税担当に起用されており、その仕組みは織田政権によって吸収されていったと考えられている。
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