室町幕府成立まで
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塩冶氏は宇多源氏の名門佐々木氏の傍流であり、バサラ大名として著名な佐々木導誉とは遠い親戚関係にある。鎌倉時代から代々出雲国(現在の島根県東部)の守護を務めた家系で、高貞もまた鎌倉時代末期にその職にあった。高貞の姉の覚日尼(かくにちに)は、出雲国造家当主・出雲大社宮司である出雲泰孝に嫁ぐなど、塩冶氏は現地の宗教勢力との縁戚関係も有した。 生誕年は不明だが、鎌倉幕府第14代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間(1311年-1333年)内に元服して、高時と烏帽子親子関係を結んでその偏諱(「高」の字)を受けた人物とみられる。 元弘の乱では、後醍醐天皇が幽閉先の隠岐国を脱出すると、隠岐国守護佐々木清高は帝を追って出雲国三尾の浦に上陸、同族の高貞に後醍醐捕縛の協力を要請したが、既に後醍醐天皇から鎌倉幕府打倒の綸旨(命令書)を受け取っていた高貞は、清高の求めを黙殺した(『梅松論』上)。その後、伯耆国船上山で再挙兵した後醍醐のもとに馳せ参じ、鎌倉幕府打倒後、後醍醐が開始した建武の新政にも参画した。元弘の乱での功績によって、建武政権では新たに隠岐国守護にも任じられ、二国の守護を兼ねた。 建武2年(1335年)の中先代の乱後、後醍醐天皇と足利氏との間で建武の乱が勃発すると、関東で自立した足利尊氏を討つべく東国に向かう新田義貞が率いる軍に参陣する。だが、箱根・竹ノ下の戦いで新田軍から足利方に寝返り、足利方の勝利に貢献した。延元元年/建武3年(1336年)6月19日には、出雲国造家当主・出雲大社宮司で自身の甥にも当たる出雲孝時やその弟の出雲貞孝を従えて伯耆国長田城を攻め、その後同月30日に小松城を攻めた(『千家文書』)。
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