日本の絞り染め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 06:19 UTC 版)
日本においては古いものでは正倉院や法隆寺に伝わっている布に絞り染めの施されているものが見られる。奈良時代の文様を表す染色法に「三纈」(さんけち)と呼ばれる「纐纈」(こうけち)、「夾纈」(きょうけち)、「臈纈」(ろうけち)があり、現在の絞り染めはこの中の「纐纈」に当たる。ただし、奈良時代から中世までは絞り染めの置かれた位置は低く、上層階級の表立った意匠として用いられるものではなかった。 絞り染めが社会の表舞台に現れるのは室町時代から安土桃山時代にかけてのことで、この時代に絞り染めの技法を用いて絵画性を持った模様を施した「辻ヶ花」が社会の表舞台に登場した。しかし、辻ヶ花はあくまでも模様を染め分けるために絞り染めを用いるものであり、江戸時代に入り糊で防染する友禅の技法が出現すると、自由度・手間の両面で劣る辻ヶ花は急速に廃れ消滅することとなる。 江戸時代の絞り染めは、大まかに高級絞り「京鹿の子」と、庶民的な「地方絞り」に分類される。京鹿の子は京都で作られる絹に絞った精緻な「疋田鹿の子絞り」の総称で、布に凹凸を残すことで手仕事であることを表し付加価値を持たせている。地方絞りは木綿布を藍染めにする庶民的な絞り染めで、豊後(現在の大分県)の豊後絞りや尾張(現在の愛知県)の有松・鳴海絞り等がこれに当たる。特に有松・鳴海は尾張藩の保護を受けて発展し、江戸時代以降最大の生産地になっている。有松・鳴海は幕末に尾張藩の専売制が撤廃されると、各地に絞りの技術者を流出させることとなる。 江戸時代の後期から明治にかけては、日本各地に絞りの産地が起こった。しかし、これらの産地は第一次世界大戦後の不況や、第二次世界大戦中の物資の統制の影響を受け衰退し、現在では絞り染めの大きな産地は京と有松のみとなっている。いずれの産地も後継者難や安い海外製品との競争などの問題を抱えるが、一方で国外などへの販路の拡大や、新しい素材を使った絞り製品の開発などの振興のための取り組みも行われている。 また、二大産地以外でも小規模ながら現在でも岩手県の南部茜・紫根絞、福岡県の博多絞りや、衰退後地域の活動により復興した秋田県の浅舞絞、新潟県の白根絞り、大分県の豊後絞り、熊本県の高瀬絞など各地で絞り染めが行われている。
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