乱の勃発と経過とは? わかりやすく解説

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乱の勃発と経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 20:01 UTC 版)

三藩の乱」の記事における「乱の勃発と経過」の解説

藩の廃止決定受けて1673年11月呉三桂は「興明討」を旗印に自ら「天下都招討兵馬大元帥」と称して清に対す反乱起こし、さらに翌1674年国号を「周」とし元号昭武」と定め貨幣鋳造行なった。なお、呉三桂及びその家臣清朝の臣として辮髪改めており、そのまま反乱起こして頭上辮髪一度明に背いて清を迎え今また清に背こうとする無節操証拠と映るため、反乱決心から実際に決起するまで数ヶ月髪が伸びるのを待ち、それが戦機逸した面もあったという。 1674年康熙13年)、呉三桂湖南占領しここから軍を東西分けて西は四川省陝西省へ、東は広西福建進軍させ、同時に尚可喜耿精忠に対して呼応誘いをかけた。1674年2月には陝西提督の王輔臣が、広西定南王の娘婿孫延齢挙兵し3月には耿精忠誘い乗って反乱起こした1676年4月広東尚之信は反清勢力包囲される形勢となったため呉三桂投降した。これに加えて台湾鄭氏政権呼応し一時長江以南全て呉三桂らの反清勢力の手落ちたため、清は危機的状況となった呉三桂たちは満州族追い出して漢族の世を取り戻すとの大義名分掲げていたが、その漢族王朝であった明の亡命政権を南に追い詰めて滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であり(それどころ漢族李自成が明を滅ぼしたときに李自成と戦うために清の援助請い満洲族北京入れたのが呉三桂本人である)、反清勢力結集不可であったまた、呉三桂たちの反乱もとよりこれと言った方針があったわけではなく自分達の権益を守るためのものであり、その思惑それぞれに異なるものであったことから、統一的な指揮系統を築くことができなかった。これらの弱点により清側も徐々に盛り返し八旗軍を中心に反乱軍各個撃破する事に成功した李氏朝鮮文臣である尹鑴は、朝鮮王顕薨去直前1674年7月1日に、朝鮮中華帝国のもっとも忠実な模範属国として、中華天子への忠実な諸侯の礼を尽くし呉三桂鄭経らの起こした三藩の乱呼応して春秋大義中国語版)に依った明王朝支援のために至急出兵参軍し、南渡の明王朝参じ朝鮮王の忠誠の義を示し、もって先王朝(明王朝)の復讐雪辱を果たすべきであるの上疏をおこない、さらに朝鮮王粛即位直後1674年12月1日にも再度同様の上疏をしている。 1676年康熙15年)、6月陝西鎮圧され10月台湾鄭氏政権対立した耿精忠が、更に12月には尚之信及び広西の孫延齢の後を継いだ孔四貞が清に降伏した1678年康熙十七年)3月劣勢に立たされた呉三桂意気上げるために湖南省衡州衡陽)で皇帝即位したが、同年8月病死した。

※この「乱の勃発と経過」の解説は、「三藩の乱」の解説の一部です。
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