乱の勃発と経過
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藩の廃止決定を受けて、1673年11月呉三桂は「興明討虜」を旗印に自ら「天下都招討兵馬大元帥」と称して清に対する反乱を起こし、さらに翌1674年に国号を「周」とし元号「昭武」と定め貨幣の鋳造も行なった。なお、呉三桂及びその家臣は清朝の臣として辮髪に改めており、そのまま反乱を起こしては頭上の辮髪が一度は明に背いて清を迎え今また清に背こうとする無節操の証拠と映るため、反乱の決心から実際に決起するまで数ヶ月髪が伸びるのを待ち、それが戦機を逸した面もあったという。 1674年(康熙13年)、呉三桂は湖南を占領し、ここから軍を東西に分けて西は四川省・陝西省へ、東は広西・福建へ進軍させ、同時に尚可喜・耿精忠に対して呼応の誘いをかけた。1674年2月には陝西で提督の王輔臣が、広西で定南王の娘婿孫延齢が挙兵し、3月には耿精忠も誘いに乗って反乱を起こした。1676年4月に広東の尚之信は反清勢力に包囲される形勢となったため呉三桂に投降した。これに加えて台湾の鄭氏政権も呼応し、一時は長江以南は全て呉三桂らの反清勢力の手に落ちたため、清は危機的状況となった。 呉三桂たちは満州族を追い出して漢族の世を取り戻すとの大義名分を掲げていたが、その漢族王朝であった明の亡命政権を南に追い詰めて滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であり(それどころか漢族の李自成が明を滅ぼしたときに李自成と戦うために清の援助を請い満洲族を北京に入れたのが呉三桂本人である)、反清勢力の結集は不可能であった。また、呉三桂たちの反乱はもとよりこれと言った方針があったわけではなく、自分達の権益を守るためのものであり、その思惑はそれぞれに異なるものであったことから、統一的な指揮系統を築くことができなかった。これらの弱点により清側も徐々に盛り返し、八旗軍を中心に反乱軍を各個撃破する事に成功した。 李氏朝鮮の文臣である尹鑴は、朝鮮王顕宗薨去直前の1674年7月1日に、朝鮮は中華帝国のもっとも忠実な模範属国として、中華の天子への忠実な諸侯の礼を尽くし、呉三桂、鄭経らの起こした三藩の乱と呼応して、春秋大義(中国語版)に依った明王朝支援のために至急出兵・参軍し、南渡の明王朝に参じ、朝鮮王の忠誠の義を示し、もって先王朝(明王朝)の復讐雪辱を果たすべきであるとの上疏をおこない、さらに朝鮮王粛宗即位直後の1674年12月1日にも再度同様の上疏をしている。 1676年(康熙15年)、6月陝西が鎮圧され、10月に台湾の鄭氏政権と対立した耿精忠が、更に12月には尚之信及び広西の孫延齢の後を継いだ孔四貞が清に降伏した。1678年(康熙十七年)3月、劣勢に立たされた呉三桂は意気を上げるために湖南省衡州(衡陽)で皇帝に即位したが、同年8月に病死した。
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