乱の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/16 16:13 UTC 版)
1510年。事の発端は釣りに向かう薺浦の恒居倭人4名を、海賊と誤認した朝鮮役人が斬殺した事にあった。日ごろから折り合いの悪かった三浦の恒居倭人は、この事態に憤慨し一斉に武器を持って立ち上がった。 さらに、4月4日、対馬から宗盛順率いる援軍を加えた恒居倭は、約4500の兵力をもって三浦の乱を起こした。これは宗氏主導で計画的に起こされたものと考えられている。彼らの目的は、強硬な取締りを行った辺将を討取り、朝鮮王朝の行なった交易の制限、恒居倭に対する検断権・徴税権の行使といった倭人抑圧政策の変更を迫る事にあった。 倭軍は、釜山浦・薺浦の僉使営を陥落させ、釜山浦では辺将を討取り、薺浦では生け捕りにした。さらに釜山浦から東萊城、薺浦から熊川城へ攻め進むが反撃に会い攻撃は頓挫した。4月9日頃、倭軍は兵の一部を対馬へ撤退させた。盛親は残りを薺浦へ集結させて自ら講和交渉に臨もうとしたが、朝鮮は講和に応じず、4月19日、朝鮮軍は薺浦へ攻撃をかけ、薺浦は陥落。倭軍は対馬へ撤退した。6月末、倭軍は再度来攻したが、撃退された。
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