新田氏の凋落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 07:42 UTC 版)
正平22年/貞治6年(1367年)4月、鎌倉公方足利基氏が死去し、12月には室町幕府2代将軍足利義詮が没した。これを機に、翌年父が義宗とともに越後にて挙兵した。同年に武蔵において勃発した武蔵平一揆の乱に乗じての蜂起であった。しかし、平一揆の乱の鎮圧に成功した足利・上杉勢の前に新田軍は奮戦むなしく敗北を喫し、惣領の義宗は越後沼田荘で戦死、義治は消息不明(一説には出羽に逃れたとも)となり、ここに新田氏は組織的蜂起を起こす力を失った。 そのような苦境の中、義則は脇屋氏を継いだものと思われる。
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