新田本宗家に従うとは? わかりやすく解説

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新田本宗家に従う

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 02:25 UTC 版)

世良田氏」の記事における「新田本宗家に従う」の解説

新田義重の四男・義季(新田義兼同母弟)が、父義重から世良田郷を譲られ、その地頭になることによって実質的に成立した。義季は得川郷(現在の太田市徳川町)を長子四郎太郎頼有に与え世良田郷は次子頼氏に継承させた。頼氏は世良田弥四郎を称し世良田氏の名を興した。義季は禅寺長楽寺建立したという。 義季・頼氏父子世良田近辺所領開発進め世良田氏新田一族中の有力者として台頭する本宗家の新田政義幕府禁忌触れて新田氏惣領職奪われると、岩松氏とともに世良田頼氏惣領職分担する至った。頼氏は幕府重きをなしたが、1272年失脚して佐渡流されてしまった。 長楽寺北条得宗家に奪われて、皮肉にもその支援によって関東十刹鎌倉十刹)に数えられる繁栄遂げることになる(北条氏滅亡後新田一族奪還する)。 頼氏のあとは嫡男の教氏、その子・家時と継承された。 鎌倉時代末の争乱が始まると、家時の弥次郎満義は惣領新田義貞に従って鎌倉攻め参戦し北条高時以下の北条氏滅ぼしたその後の満義は南北朝時代争乱下においても、一族江田行義(教氏の弟の有氏の子とともに義貞に従い続き南朝方として終始活躍した。 その一方、満義の一族世良田義政は、下野国拠点とした。彼は一族の義周とともに足利氏尊氏など)を中心とした北朝方として、功績残し上総国守護になっているその末裔は、四職山名氏因幡国伯耆国守護随行したという。因幡徳川氏(後に森本氏)と改め家老森本将監などが出たという。

※この「新田本宗家に従う」の解説は、「世良田氏」の解説の一部です。
「新田本宗家に従う」を含む「世良田氏」の記事については、「世良田氏」の概要を参照ください。

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