新田氏嫡流争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 09:29 UTC 版)
当初よりそうであったが、明治維新後は新政府に対して自らが新田義貞の嫡流であることを強く主張。幕府高家衆であった由良氏とその分家の横瀬氏(横瀬は由良の旧姓)の当主・新田貞靖(由良貞靖)、新田貞時(由良貞時)、横瀬貞固、横瀬貞篤と反目。しかし維新以後は共に新田氏の顕彰に努めたことが、群馬県社新田神社、別格官幣社藤島神社の創建につながり、記録に残っている。幕府の手前、江戸時代も本姓を「岩松」としながらも新田姓への執着があり、しばしば「新田満次郎」を名乗ったり書状に署名した。明治元年、新政府に届けて正式に「新田姓」を称した。男爵となったのは長女・武子が維新の功労者・井上馨の室となったからだという世評がある。 新田氏正嫡論は甲乙つけがたく、岩松系新田家と由良系新田氏とは共に家系が判然としないこともあって難航した。一般士族が旧幕時代の官位を返上させられた後も、当初貞靖・貞時父子が維新以後それぞれ従四位(元は従四位上侍従兼播磨守)、従五位(元は従五位下侍従兼信濃守)を保持し優勢だったのに比べて、俊純は無位無官であった。だが由良系新田氏の当主がその後も新田貞善、新田貞觀と4代にわたって早世したこともあり、当初不利だった岩松系新田家が優勢となり、受爵に結びついた。
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