新田貞靖とは? わかりやすく解説

新田貞靖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/22 04:17 UTC 版)

 
由良 貞靖/新田 貞靖
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天明5年4月9日1785年5月17日
死没 明治2年2月9日1869年2月19日
改名 松平寿之助、由良久之助(幼名)、頼靖(初名)、貞靖、新田貞靖
別名 新田四位侍従
戒名 徳勝院殿施道良門大居士
墓所 芝二本榎の國昌寺
官位 従四位上侍従播磨守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家斉家慶家定家茂
氏族 守山松平家由良氏
父母 松平頼亮、川上氏
由良貞陰
兄弟 松平頼孝、松平頼慎武田信典貞靖
知久頼衍、伴、都子
新田貞時正室
貞時
テンプレートを表示

新田 貞靖(にった さだやす)は、江戸時代後期の高家旗本由良家11代当主。維新以前は由良 貞靖を名乗った。

生涯

天明5年(1785年)、陸奥国守山藩3代藩主・松平頼亮の四男または五男[1]として誕生。文化11年(1814年)3月27日、由良貞陰の養子となった。同年7月22日、貞陰の隠居により家督を相続する。同年9月22日、11代将軍・徳川家斉御目見し、表高家となる。

文政2年12月24日(1820年)、高家職に就任し、諸大夫と成り改名を命ぜられ、名乗りを久之助から播磨守と改める。天保13年(1842年)5月15日、従四位下に昇進する。嘉永5年(1852年)5月26日、高家肝煎となり、役料800俵を賜る。嘉永7年(1854年)2月18日、従四位上。文久3年(1863年)12月21日、高家肝煎を辞し、雁之間高家末席となる。元治元年(1864年)7月29日、養子・貞時に家督を譲る。その際500俵を隠居料として賜る。

慶応4年(1868年)、隠居の身ながら家臣と協議し、新田姓に復することを決議する。貞時と共に新田姓となり、「新田四位侍従」と呼称された。

明治2年(1869年)2月9日、死去。享年85。法名は徳勝院殿施道良門大居士。

菩提寺は、新田由良家歴代と同じく芝二本榎の國昌寺。

系譜

脚注

  1. ^ 「新田家系譜」[要文献特定詳細情報]




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「新田貞靖」の関連用語

新田貞靖のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



新田貞靖のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの新田貞靖 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS