森忠敬とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 森忠敬の意味・解説 

森忠敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/05 13:10 UTC 版)

 
森忠敬
時代 江戸時代後期
生誕 寛政6年6月20日1794年7月16日
死没 文政7年6月4日1824年6月30日[1]
または同年6月8日(同年7月4日[2]
改名 胆之進(幼名)、可睦(初名)、忠敬
戒名 法性院殿禅岳悟空大居士
墓所 東京都港区東麻布の瑠璃光寺
官位 従五位下美作守越中守肥後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
播磨赤穂藩
氏族 森氏
父母 森忠賛森忠哲
兄弟 忠哲忠敬長篤、青木可度、可象、
千恵、宮、米津政懿継室、森賛張室、
戸田麟平室、鏈、落合某室、
京極高聡継室、脇坂某室ら
酒井忠実娘東姫
忠貫、正綽、忠徳、青木可寿、新田貞時、森可彝室
テンプレートを表示

森 忠敬(もり ただよし)は、播磨国赤穂藩9代藩主。赤穂藩森家15代。

生涯

寛政6年(1794年)6月20日、7代藩主・森忠賛の十男として生まれる。文化4年(1807年)に兄で第8代藩主の忠哲が死去したため、その養子として家督を継いだ。文化5年(1808年)8月15日に11代将軍・徳川家斉と拝謁し、12月16日に従五位下・美作守に叙位・任官する。

文政面では、兄の忠哲が先代の事績を明らかにすべく編集していた『森家先代実録』の制作を引き継ぎ、儒学者の村上中所の監修で制作を進め、文化6年(1809年)に28巻からなる『実録』を完成させた。また忠敬は、さらに補遺の作成を命じ、文化8年(1811年)に補遺2巻も完成した。全30巻からなるこの『実録』は、戦国時代からの森家の事績を仔細に調べ上げており、現在に至っても森家のことを調べる上で重要な書となっている。

藩政においては、文化8年(1811年)と文化14年(1817年)に塩田開発を積極的に行い、塩問屋との関係強化に努めて藩財政再建を目指した。また、藩校の博文館をさらに拡張した。文化10年(1813年)に越中守に遷任し、後に肥後守に遷任する。文政7年(1824年)6月4日(または6月8日)に死去した。享年31。

森家譜によると、跡を長男・忠貫が継いでいる。ただし忠貫は早世したため、三男・忠徳が替え玉(表向き同一人物)として擁立され、忠貫は歴代藩主に数えられていない。

系譜

脚注

  1. ^ 森忠敬」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E5%BF%A0%E6%95%ACコトバンクより2025年5月7日閲覧 
  2. ^ 『三百藩藩主人名事典 第3巻』新人物往来社、1987年、p.438。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「森忠敬」の関連用語

1
30% |||||

2
16% |||||

3
16% |||||

4
16% |||||

5
16% |||||

6
14% |||||

7
14% |||||

8
14% |||||


10
10% |||||

森忠敬のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



森忠敬のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの森忠敬 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS