池田政綱
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| 時代 | 江戸時代前期 | 
| 生誕 | 慶長10年(1605年) | 
| 死没 | 寛永8年7月29日(1631年8月26日) | 
| 改名 | 岩松(幼名)、政綱 | 
| 別名 | 松平政綱 | 
| 戒名 | 雲龍院殿涼軸蔭公大居士 | 
| 墓所 | 岡山県岡山市中区国富の少林寺 | 
| 官位 | 従五位下、従四位下、右京大夫 | 
| 幕府 | 江戸幕府 | 
| 主君 | 徳川秀忠、家光 | 
| 藩 | 播磨赤穂藩主 | 
| 氏族 | 池田氏 | 
| 父母 | 池田輝政、督姫 | 
| 兄弟 | 利隆、政虎、輝高、利政、茶々姫、忠継、忠雄、輝澄、政綱、孝勝院、輝興ら11男3女 | 
池田 政綱(いけだ まさつな)は、江戸時代前期の大名。播磨国赤穂藩初代藩主。
略歴
慶長10年(1605年)、播磨姫路藩主・池田輝政の五男として姫路城で生まれる。母は徳川家康の次女・督姫であるから、家康の外孫に当たる。そのため、慶長16年(1611年)には家康から松平姓を下賜された。元和元年(1615年)、備前岡山藩主だった兄の池田忠継が死去すると、その遺領から赤穂郡3万5,000石を分与されて、赤穂藩を立藩した。
元和9年(1623年)7月19日に従五位下、右京大夫に叙任する。寛永3年(1626年)には従四位下に昇進する。藩政においても藩の基礎を固めるなど、若くして手腕を見せていたが、元和4年(1618年)には本多忠政の家臣・稲垣平馬事件も起こるなど、世情不安の中で寛永8年(1631年)7月29日に死去した。享年27。
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