安芸小幡氏とは? わかりやすく解説

安芸小幡氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 01:21 UTC 版)

小幡氏」の記事における「安芸小幡氏」の解説

中世安芸国国人領主として小幡氏文献見られる。この小幡氏上州小幡氏同族で、上州小幡氏一族南北朝時代初期文和年間)に安芸国佐西郡石道地頭職得て安芸国移住してきたと推測されている。文献での初見文和元年1352年11月の『足利義詮下文』、『沙弥施行状写』で、「安芸国武名地名小幡右衛門尉跡」とされる時代が下ると、小幡右衛門尉の子孫と思われる小幡行延が、廿日市洞雲寺との所領争い起こすなど、国人領主として、地域での勢力拡大腐心していたことが伺える。応永11年1404年)、当時安芸国守護であった山名氏対抗するため国人領主らが結んだ一揆契約安芸国人一揆契状』にも小幡親行の名があるまた、この地域大きな影響力持っていた厳島神主家からも独立した存在でもあったようで、大永3年1523年)に友田起こした反乱の際には、大内氏であった小幡興行安芸武田氏から攻撃され円明寺一族8人ともども切腹させられている。大永7年1527年)頃、大内家三井三郎二郎とともに小幡四郎城番として石道新城入城して、この佐西郡石道地域復権果たした思われる天文12年1543年)頃、小幡山城入道石道を通る山陽道に、新たに関所設けた記録残っている。 また、天文20年1551年)に陶隆房謀叛起こした大寧寺の変)際、大内義隆最期まで付き従った家臣中に小幡四郎小幡義実)の名もあり、石道新城居た小幡山城守も、石見国津和野吉見氏頼って逃れる途中で自害した伝えられている。大内義隆自害とともに、その被官であった安芸小幡氏も断絶した。しかし、長州藩士として小幡氏の名前も散見され生き残り安芸国毛利氏仕えた一族がいたと思われるまた、毛利元就後室となった中の丸萩藩閥閲録によると小幡氏出身で、小幡某の娘であったとされる

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