安芸小幡氏
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中世安芸国の国人領主として小幡氏が文献に見られる。この小幡氏は上州小幡氏と同族で、上州小幡氏の一族が南北朝時代初期(文和年間)に安芸国佐西郡石道の地頭職を得て安芸国に移住してきたと推測されている。文献での初見は文和元年(1352年)11月の『足利義詮下文』、『沙弥某施行状写』で、「安芸国 兼武名(地名) 小幡右衛門尉跡」とされる。 時代が下ると、小幡右衛門尉の子孫と思われる小幡行延が、廿日市の洞雲寺との所領争いを起こすなど、国人領主として、地域での勢力拡大に腐心していたことが伺える。応永11年(1404年)、当時の安芸国守護であった山名氏へ対抗するため国人領主らが結んだ一揆契約『安芸国人一揆契状』にも小幡親行の名がある。 また、この地域に大きな影響力を持っていた厳島神主家からも独立した存在でもあったようで、大永3年(1523年)に友田興藤が起こした反乱の際には、大内氏側であった小幡興行が安芸武田氏から攻撃され、円明寺で一族8人ともども切腹させられている。大永7年(1527年)頃、大内家臣三井三郎二郎とともに、小幡四郎が城番として石道新城に入城して、この佐西郡石道の地域で復権を果たしたと思われる。天文12年(1543年)頃、小幡山城入道が石道を通る山陽道に、新たに関所を設けた記録が残っている。 また、天文20年(1551年)に陶隆房が謀叛を起こした(大寧寺の変)際、大内義隆に最期まで付き従った家臣の中に小幡四郎(小幡義実)の名もあり、石道新城に居た小幡山城守も、石見国津和野の吉見氏を頼って逃れる途中で自害したと伝えられている。大内義隆の自害とともに、その被官であった安芸小幡氏も断絶した。しかし、長州藩士として小幡氏の名前も散見され、生き残り、安芸国の毛利氏に仕えた一族がいたと思われる。 また、毛利元就の後室となった中の丸は萩藩閥閲録によると小幡氏の出身で、小幡某の娘であったとされる。
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