安芸志道氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/09 04:58 UTC 版)
安芸国毛利氏の一族で、毛利親衡の孫(もしくはひ孫)・広秋が坂氏を名乗り、その四男であった元良が安芸国志道を領して、その地名より志道氏を称したことに始まる。 毛利豊元・煕元の代に、毛利氏の庶家で最大の勢力を誇る麻原氏を滅亡に追い込み、その次の勢力であった坂氏を毛利氏執権として、毛利氏の支配制度の中に組み込んでいった。その後は坂広秋、坂広明が執権として権力を奮ったが、毛利元就の家督相続に絡み、坂氏は勢力を落とすこととなった[要出典]。 毛利幸松丸の死後、重臣15人は毛利元就に家督相続を要請した。これには、執権であった志道広良の強い意志があり、広良の主導によって、成しえたものであった。しかし、これに不満を持つ坂広秀らは、謀反の計画を立て、元就の弟・相合元綱を擁立しようと企み、最終的には元就によって誅殺された[要出典]。 志道広良は嫡子が夭折していたため、その死後、家督を嫡孫・志道元保が継いだ。子孫は、元保の系統など寄組に三家、手廻組に一家、大組に9家があった[要出典]。
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