安芸武田家臣から毛利家臣へとは? わかりやすく解説

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安芸武田家臣から毛利家臣へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 14:04 UTC 版)

熊谷信直」の記事における「安芸武田家臣から毛利家臣へ」の解説

平安時代末期平氏との戦いで活躍した熊谷直実直系の子孫である。安芸国国人領主であり、安芸守護務めていた安芸武田氏家臣となっていた。 父の元直武田元繁従い永正14年1517年)に毛利元就率い吉川毛利連合軍戦い有田中井手の戦い討死している。この一件もあり、この頃毛利氏敵対関係であった大永4年1524年)に周防長門大名大内義興安芸侵攻し安芸武田氏居城佐東銀山城包囲した大内軍の一部三入庄まで進出したため、八木城主・香川吉景らの支援得て大内軍を打ち破った同年7月には、父の仇であった毛利元就指揮下に入り香川光景三須清ら大内包囲軍に奇襲をかけ、散々に打ち破った。仇であった元就戦いぶり間近に見た信直は、元就対す認識変え毛利氏との和解へと繋がった大永7年1527年)に同じ安芸武田家臣の船山城主山中成祐が信直を暗殺しようとして失敗3年後にこの仇を討ち、弟の直続、家臣の岸添直清、末田直道らと謀って山中成祐兄弟討ち取った天文2年1533年)に所領問題武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏毛利氏熊谷氏密約漏れたこと、信直が武田氏所領横領したことなどで武田氏対立ついには自身居城である三入高松城攻撃受けた兵力は1,000余で、それを二手分け三入高松城攻撃するのは総大将武田光和以下、品川信定200、もう一軍総大将武田一門伴繁清、それに従うのは香川光景己斐直之熊谷一族山田重任、温科家行、飯田義武板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田忠・直兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った三入庄に侵攻した伴繁清率い武田軍三入横川表に進出し防備固めていた熊谷信直配下300激突した。この横川表の戦いにおいて少数熊谷勢は奮戦して総大将伴繁清負傷させた。また三入高松城侵攻した本隊多く死傷者出し撤退余儀なくされた。これを横川表の戦いと言う。 この合戦期に毛利氏との連携強め、その指示へ従うようになった

※この「安芸武田家臣から毛利家臣へ」の解説は、「熊谷信直」の解説の一部です。
「安芸武田家臣から毛利家臣へ」を含む「熊谷信直」の記事については、「熊谷信直」の概要を参照ください。

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