安芸山県氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 03:34 UTC 版)
平安時代の末期、山県三郎為綱が安芸国壬生荘に下向し、その領主となったことが安芸山県氏の始まりとされる。これ以前に山県郡志道原荘を領する在地豪族で、大国主命の神裔を称する凡氏の庶流に山県氏もいたが、その系譜と源姓山県氏との関わりは不明である。山県為綱は治承・寿永の乱(源平合戦)では源氏側に付き、その戦いぶりを賞された。 南北朝時代になると、安芸山県氏は毛利親衡らと共に足利直冬側として行動するが、直冬の勢力低下に伴い、北朝に帰順している。その後は安芸武田氏の家臣として活動し、大内氏や毛利氏と戦った。1522年に当主の山県信春は毛利元就の攻撃を受け、居城の壬生城は落城。残った一族の山県元照は、毛利氏の家臣となった。山県氏は安芸武田氏の水軍としても活躍し、毛利元就への従属後は毛利水軍の一員として各地を転戦している。その一族と思われる山県長茂は吉川経家の小姓となり、1581年の鳥取城の戦いにも参加した。吉川経家の切腹にも立ち会った長茂は1644年に「山県長茂覚書」を書き遺し、経家の最期の様子を現在に伝えている。 江戸時代にも山県氏は長州藩士として続き、後に明治の元勲・山縣有朋を出している。
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