安芸平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 00:11 UTC 版)
5月12日、挙兵した元就は、毛利・吉川・小早川の軍勢に熊谷信直ら安芸国人衆を糾合した兵3,000で出陣。最初に栗田肥後入道が城番を務める佐東銀山城を攻める。城は毛利家臣の児玉就方による説得で戦わずして開城。栗田肥後入道は周防へ送還された。多数の城兵が石見遠征軍に送られているなどして、守兵が殆どいなかったと考えられている。さらに毛利軍は己斐城(広島市西区)を攻め、城主己斐直之に戦う意志はなく降伏した。 その後、毛利軍は江良賢宣が守る桜尾城(廿日市市)へ進軍。支城の草津城(広島市西区)を落とし、その勢いで桜尾城も落とした。元春と信直の事前の調略により瞬く間に桜尾城を占拠したと伝えられる。厳島の対岸にある桜尾城が陥落したことにより、厳島も毛利が奪取(広島湾周辺で活動する交易商から毛利家臣となっていた堀立直正が廿日市や厳島の町方衆と交渉し、毛利軍の接収が順調に進んだと伝わる)。わずか1日で、佐東銀山城・己斐城・草津城・桜尾城の4城、厳島を押さえた。 さらに元就らは、同月中旬までには仁保島城(広島市南区)も手に入れ、香川光景を城番とした。そして、草津城に児玉就方、桜尾城に桂元澄、厳島に己斐直之を置いてこれを守らせた。
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