各種刊本の系譜
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「三国志演義の成立史」の記事における「各種刊本の系譜」の解説
16世紀嘉靖から万暦にかけては、江南を中心に印刷業や書籍の流通業が発達し、空前の出版ブームが発生した時期である。著作権概念の無かった当時『演義』に限らず、ある作品が人気になると、別の書店がその版木を覆刻・複製して販売することが横行し、その際独自のエピソードを増補したり改作して他の書店と差別化するなどの売り方がとられた。『演義』は最初に人気になった通俗小説でもあり、様々な書店から非常に多くの刊本(テキスト)が売り出された。好評を得た刊本からさらに孫引きした複製や増補が加わることもあり、採用された逸話や用語・用字の違いなどから、各刊本どうしの系譜関係が類推できる。嘉靖本からの進化ですべてを説明した鄭振鐸をはじめ、小川環樹・柳存仁・周頓・上田望などが様々な説を唱えているが、ここでは金文京、中川諭による研究を基に説明する。 現在までに発見されているテキストのうち、主要なものは以下の通りである。 『三国志演義』の主要刊本書名通称刊行年巻数発行図像関索周詩所蔵三国志通俗演義 嘉靖本 嘉靖元年(1522年) 24巻 不明 なし なし なし 上海図書館・天理市図書館ほか 新刊按鑑漢譜三国志伝絵象足本大全 葉逢春本 嘉靖27年(1548年) 10巻 葉逢春 あり なし あり エスコリアル修道院(スペイン) 新刊校正古本大字音釈三国志通俗演義 周曰校本 万暦9年(1581年) 12巻 万巻楼(仁寿堂) なし 関索 あり 北京大学・内閣文庫・蓬左文庫ほか 李卓吾先生批評三国志 呉観明本 不明 120回 不明 あり 関索 あり 北京大学・内閣文庫・蓬左文庫ほか 音釈補遺按鑑演義全像批計三国志伝 余象斗本 万暦20年(1592年) 20巻 双峰堂(余象斗) あり 花関索 あり 建仁寺・ケンブリッジ大学・ヴュルテンブルク州立図書館・オックスフォード大学・大英博物館 新刻音釈旁訓評林演義三国志史伝 朱鼎臣本 不明 20巻 双峰堂(余象斗) あり 花関索 あり ハーバード大学燕京図書館・ロンドン博物館 鍾伯敬先生批許三国志 鍾伯敬本 天啓~崇禎年間? 20巻120回 積慶堂 なし 関索 あり 東京大学・天理大学 四大奇書第一種 毛宗崗本 康煕5年(1666年)? 19巻 愛日堂 あり 関索 なし 李笠翁批閲三国志 李漁本 康熙18年(1679年)? 120回 不明 あり 関索 あり 北京図書館・京都大学・パリ国家図書館 発行者・発行年などの書誌情報は失われている場合が多いが、以下のような要素を材料に、系譜関係を推測できる。 繁簡の別明代の長篇小説は、精細な叙述で詩詞を交えた「文繁本(繁本)」と、文章を簡略化して挿絵を入れるなどした「文簡本(簡本)」に大きく分けられることが多い。『演義』でも『水滸伝』『西遊記』と同様、先に繁本が成立し、そこから文章量を削減した簡本ができたと見られる。 李卓吾の批評李贄(字は卓吾、1527年 - 1602年)は、偽りのない心を尊ぶ童心説で知られた陽明学者で、低俗と見られていた小説を高く評価した。経書や詩文を至高の文学としていた旧来の儒教的価値観から逸脱していたため、迫害され獄中で自殺したが、出版業界では通俗文学を評価した李卓吾の名声は高まった。そのため小説の中に李卓吾の名を使った批評をつけて、売りにすることが流行した(実際には葉昼などの文人が李卓吾の名を騙ったもの)。後に日本へもたらされた呉観明本をはじめ、緑蔭堂本・蔡光楼本などが書名に「李卓吾先生批評」と冠しており、まとめて李卓吾評本系と呼ばれる。 ほかに、李卓吾の思想系譜を引く竟陵派の鍾惺(伯敬)の名を冠した鍾伯敬本もある(これも鍾惺本人の注釈ではない)。 巻数・章回嘉靖本以来の『演義』は全240則(則は話のまとまり。葉逢春本では段と称する)から構成され、20巻本では12則が1巻、24巻本では10則が1巻となっていた。各則には短い題名がつく(ただし第○則とか第○段といった数字表記はない)。ところが『水滸伝』などの影響により、李卓吾評本ではこの構成を、2則を併せて1回とし、全120回とする構成に変更した。章立てを「第○○回」と数字で呼称することから「章回小説」と呼ぶ。 後の毛宗崗本では、さらに各回の題名を対句的表現とし、各回の最後に「○○如何、且聴下回分解(続きはどうなるか、次回をお聞きあれ)」という講談形式の台詞を挿入している。 関索説話の有無前述の通り、刊本によって関羽の子関索が登場しないもの、登場する場面が違うものがある。便宜上、孔明の南征に関索が従軍するものを関索系、荊州の関羽の元に母を伴って現れるものを花関索系と呼ぶ。 周静軒詩の有無周礼(号は静軒先生)は、弘治年間に在世したと推定される杭州の在野の歴史家で、『演義』で描かれる歴史的事件について多くの詩を詠み、それらが挿入された刊本も多い。周静軒の詩が挿入された最初の刊本は、1548年の葉逢春本で、嘉靖本には見えない。その後多くの刊本でそのまま受け継がれたが、毛宗崗はこれを削除している。 まず、各種刊本は大きく3つの系統に分けられる。最も分かりやすい違いは改則の箇所(どこで次の則に移るか)である。たとえば帝号を称した袁術が呂布を攻めて破れた場面(毛宗崗本では第17回に相当)は、内容自体にはあまり相違が無いが、改則している箇所を見ると、嘉靖本では曹操の使者が江東を訪れ孫策が兵を起こそうと考える場面、余象斗本では袁術が呂布に敗れて逃げた際に謎の軍(実は関羽)が現れたという場面、朱鼎臣本では陳珪が陳登に楊奉・韓暹を呂布から引き離した真意を語る場面で、それぞれ則が改まっている。毛宗崗本を除くすべての刊本は、以上の3種類のいずれかで改則しており、これによって分類できる。 1つ目のグループは嘉靖本を含む、主に南京(金陵)の書店から発刊された24巻立て(あるいは12巻立て)のテキストで、これを「二十四巻系」と呼び、周曰校本や李卓吾評本などが含まれる。改則箇所は異なるが、他の要素を注意深く見ると毛宗崗本もこのグループに近いことが分かる。その他は、主に福建(建陽)の書店から発刊され「三国志伝(史伝)」の名が特徴的な20巻立てのもので、余象斗本を中心として鄭少垣本・楊閩斎本など文章が詳細なグループ(「二十巻繁本系」と呼ぶ)と、朱鼎臣本・劉龍田本・楊美生本など文章が簡略化されたグループ(「二十巻簡本系」と呼ぶ)に分けられる。この時期、南京と福建の書店は出版戦争とも言うべき激しい商戦を繰り広げており、余象斗や朱鼎臣といった福建の書林は『演義』に限らず『水滸伝』や『西遊記』においても、南京の書店に対抗して独自の増補や工夫を施して他と差別化を図った意欲的な業者として知られる。これら福建の二十巻系は、繁本系・簡本系ともに嘉靖本より前の抄本の古い内容と見られる内容が残る。一方嘉靖本と同じグループの二十四巻系諸本も、嘉靖本から直接進化したのではなく、それより古い抄本を参照した形跡がある。これらの流れをまとめると以下のようになる。 原「三国演義」成立後、『演義』が抄本形式で広まった段階で、史書によって修訂されたものとそうでないものに分かれた。修訂を経た方で早く刊本になったのが嘉靖本であり、それにいくつかの説話や周静軒の詩を挿入したのが周曰校本などにつながる。一方、修訂を経ないテキストにも周静軒詩が挿入された。このうちの一つが葉逢春本である。そしてその中で文章を簡略化したものとしていないものに分かれ、簡略化していない方に花関索説話を挿入したものが二十巻繁本系、簡略にしたものに関索説話を挿入したものが二十巻簡本系につながる。万暦年間に二十四巻系諸本で李卓吾批評と称する注釈を入れたものが現れ、章回分けが行われたのが李卓吾評本である。この李卓吾本の流れから清代に入り、史実を重視して虚構を削ったものが毛宗崗本となる。
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