孫劉同盟を司るとは? わかりやすく解説

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孫劉同盟を司る

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:30 UTC 版)

魯粛」の記事における「孫劉同盟を司る」の解説

赤壁の戦い直前劉表死去すると、すぐに荊州様子探りに行くように進言し、劉表弔問使者となることを申し出た孫権魯粛使者として送ったが、魯粛夏口まで赴いたところで、既に曹操荊州征伐の軍を起こしたことを知り、ただちに南郡急行した。そこで劉琮曹操降伏し劉備敗走し江夏向かっていることを知ったため、魯粛劉備迎え取るため出向き当陽長坂劉備との対面果たした魯粛孫権意向実力伝え劉備同盟を結び曹操対峙したい事を進言すると、劉備はこれを喜んだ。さらに諸葛亮話し合って親交結んだ劉備夏口に着くと、魯粛孫権の下に復命をするために帰還したが、このとき劉備諸葛亮使者として魯粛同行させた。孫権陣営曹操への降伏論傾きつつあったが、魯粛一人沈黙し孫権が厠に立ったときにこれを追いかけた。孫権魯粛存念尋ねたところ、魯粛孫権には自らと違い曹操降伏して身の置き所がない説き降伏論には孫権にとって利がないことを論じた孫権は、実は同じ考え方であり、降伏論失望していたことを打ち明け魯粛存在天からの贈り物として称えた周瑜使者として鄱陽にいたが、魯粛孫権進言周瑜呼び戻すよう勧めた周瑜帰還すると、孫権周瑜に軍の総指揮任せ魯粛を賛軍校尉任命し補佐させた。赤壁戦後曹操敗走すると、魯粛すぐさま一足早く帰陣した。孫権諸将総動員して魯粛出迎える。魯粛陣地入って拝礼ようとすると、孫権立ち上がって彼に敬礼し、そして言った「子敬よ、孤が鞍を手に下馬して出迎えたならば、卿を充分に顕彰したといえるだろうか?」、魯粛走り出言ったまだまだですな」。人々にそれを聞いて愕然としない者はない。座に着いたのち、魯粛ゆっくりと鞭を挙げながら言った。「願わくば至尊よ、威徳四海加えて九州総括され、よく帝業打ち立て改めて安車・軟輪をもって魯粛徴されよ。そうして初め顕彰したことになるのでございます」、孫権は手を叩いて愉快げに笑った赤壁の戦い直後孫権軍荊州南部南郡武陵長沙桂陽零陵曹操より奪い取った武陵公安駐屯し劉備は呉の京城訪問し荊州南部の督にしてほしいと孫権求めた。これには周瑜呂範といった人物反対し、劉備このまま引き止めておくよう孫権求めたこのような中で周瑜死去すると、その遺言後継役として選ばれ、奮武校尉任命され軍隊取りまとめ上で周瑜兵士4千人ほどと所領の4県を有した程普南郡太守任命される一方で魯粛江陵に軍を置いたが、やがて陸口に駐屯地移した地方でも彼の威徳行き渡り兵士1万人ほどに増強された。漢昌太守・偏将軍となった魯粛曹操という大敵対抗するためには劉備に力を与えておくべきと考え孫権進言した。魯粛提案受けた孫権は、劉備荊州貸し与えた劉備陣営との連携尽力し周瑜死後には孫権陣営舵取り役として活躍周瑜荊州制圧した直後孫権劉備共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきた。しかし劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと思ったのでこれを断った。かつて孫権益州遠征しようとしたとき、劉備阻止された。212年劉備自身益州内応乗じた騙まし討ちを行うと、孫権劉備前言との違い詐術用いた吐き捨てた。孫権劉備部下荊州守っていた関羽との間でも、荊州巡って何度紛争が起こるようになっていたが、魯粛劉備同盟し曹操に当たることが、劉備達には常に友好的な態度接し、事を荒立てないようにした。 214年、皖城の戦い参加し、やがて横江将軍転じた215年劉備益州併呑したことを知った孫権は、荊州長沙桂陽零陵返還求めた拒絶されたため、呂蒙命じてこの3郡を平定した。孫権長沙桂陽零陵の三郡に役人送り込もうとするが、それを関羽追い返してしまう。孫権はこの知らせ聞くと自ら陸口に布陣し魯粛1万軍を率いて巴丘に進軍すると、劉備公安出陣し関羽が3軍を率いて益陽布陣した。一方呂蒙が2の軍を指揮して長沙桂陽降伏させ、安成・攸・永新茶陵の四県の官吏合して山城籠り抵抗したが、呂岱攻められ降伏した関羽牽制するため、魯粛益陽に城を築いた関羽は3万人のうち、精鋭5千人自選し、川の上流の十何里かの瀬に送り夜に川を渡ろうとした。魯粛諸将はこの対応を議論する甘寧は「俺の3百の兵に加え、あと5百の兵士渡してくれれば俺が対応できる関羽は俺が咳をしたり唾を飲んだりするのを聞けば川を渡らないだろう。しいて川を渡れば、関羽捕らえられる」と主張した魯粛甘寧に千の兵を選び与え甘寧夜のうちに対岸布陣した。関羽はこれを聞き、川を渡らず、軍営結んだ。その土地関羽瀬と名付けられることになった孫権呂蒙魯粛への救援命じ、しかし呂蒙救援書を隠した時に零陵郝普はいったんは降伏を拒ん、最終的に呂蒙計略騙され降伏した。後に呂蒙孫河を三郡に駐屯させると、自分益陽進軍し魯粛軍と兵を合わせ両軍戦わずして対峙させた。魯粛は常に毅然とした態度臨み関羽招いて会見し、おのおの兵馬百歩後ろ控えさせ、ただ将軍だけが刀一振り帯びて会談に臨むよう申し入れた魯粛関羽会談しようとしたとき、諸将変事が起こるのを懸念して赴くきでない提言した魯粛は「荊州土地劉備敗れて遠来し、住むところがなかった為に貸したものであり、今、益州を獲たのにもかかわらず返還意思無く、ただ三郡を求めて命令従わないとはどういうことか」と関羽責めた。これに対してこの会談において座っていたもの一人が「土地は徳のあるものが所有するのであり、どうして有するところが定まっていようか」と叫んだ劉備に対して強硬な態度をとる魯粛はこれを顔をしかめて怒鳴ったが、関羽は「国家の事がこのような人にどうしてわかろうか」と目配せをして座から去らせた。魯粛劉備を情を飾り、徳にもとったため好誼がやぶれたと非難する関羽答えることも無かったとある。曹操張魯降伏させ漢中領有すると、荊州返還拒否した劉備益州を失うことを恐れて孫権和解求めた要求した三郡の領有はかなわなかったものの湘水境界線として割き孫権零陵郝普劉備返還した劉備孫権長沙桂陽領有権認め自分零陵武陵南郡領有することとなり停戦した。その後孫権呂岱長沙駐屯させると、魯粛引き返して陸口に駐屯した。 216年長沙郡安成県長の呉碭中郎将の袁龍が関羽呼応して再び反乱起こし、攸と醴陵に拠った。孫権魯粛に命して攸を討たせ、呂岱には醴陵攻撃させた。二人敗れて呉碭逃亡し、袁龍は捕らえられ斬られ、反乱平定された。 217年秋に46歳死去した孫権は哭礼し葬儀にも直々に参加した。また諸葛亮も喪に服した孫権229年即位した時、儀礼のための祭壇登る群臣振り返り、「魯粛にはこうなる事が分かっていたのだ」と敬意示したという。

※この「孫劉同盟を司る」の解説は、「魯粛」の解説の一部です。
「孫劉同盟を司る」を含む「魯粛」の記事については、「魯粛」の概要を参照ください。

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