曹操への降伏までとは? わかりやすく解説

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曹操への降伏まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 14:18 UTC 版)

張魯」の記事における「曹操への降伏まで」の解説

建安16年211年)、曹操軍鍾繇張魯征伐名目に軍を動かしたところ、関中有力者韓遂馬超らが自分達を攻撃するつもりではないか疑心暗鬼になり、これに立ちはだかった潼関の戦い)。曹操両者破り関中平定したが、張魯にまで攻撃の手をのばさなかった。 韓遂馬超の乱を避けて関西より数万住民が子午道を通って張魯元に避難したまた、馬超と共に曹操反乱した劉雄鳴(中国語版)・程銀侯選といった人物も、漢中亡命してきた。 馬超が隴上で再起図ったときは、張魯援軍として楊昂派遣している(「楊阜伝」)。 再び敗れた馬超は、一族部下龐徳と共に漢中張魯元に亡命してきた。張魯馬超に娘を娶らせようとしたが、ある近侍が「身内愛せない人物が、どうして他人愛することなどできましょうか」と諫言したため取り止めた馬超張魯から兵士何度借り失地回復試みた失敗した。これに対し張魯軍の楊白らが馬超批判したため、馬超武都氐族居住地出奔した(「馬超伝」が引く『典略』)。残存し龐徳などは引き続き張魯庇護受けた。 これより以前劉璋曹操張魯脅威対抗するため、荊州から劉備呼び寄せて張魯征伐させようとしていた。しかし、益州入った劉備劉璋仲違い起こし合戦となり(入蜀)、劉備優勢となり劉璋本拠である成都包囲していた。馬超劉備誘いを受け、軍勢引き連れて劉備元に出奔した建安20年215年3月、ついに曹操大軍率いて散関から武都通り漢中攻め込んで来た。張魯降伏しようと考えていたが、弟の張衛はこれに反対して出陣した。秋7月陽安において初戦こそ曹操軍撃退したものの、張衛程なくして敗退したという(陽平関の戦い)。このため張魯はいよいよ降伏しようとしたが、閻圃の「追い詰められ降伏して軽く見られる」との進言受け入れ巴中逃走したこの際張魯財宝入ったを「国家の物だから」と焼き払わず封印したこのため曹操南鄭漢中)を平定し財宝無傷手に入れることができたという。 曹操は巴・漢をすべて平定すると、漢寧郡を漢中郡戻し漢中郡から安陽西城の2県を分けて西城郡とし、鍚と上庸の両県を分けて上庸郡とし、それぞれに太守都尉置いて統治させた(「武帝紀」)。9月には、巴の七豪族のうち、朴胡杜濩曹操降伏した曹操張魯神妙な態度かねてから感心していたので、使者送って巴中にいる張魯説得させた。張魯家族引き連れて降伏した。このとき龐徳なども張魯とともに降伏している。しかし馬超の子の馬秋(中国語版)などは、曹操の命により処刑された(「龐徳伝」、「馬超伝」)。一方劉備張魯迎えろうとして黄権巴中派遣していたが、曹操先んじられ果たせなかったという(蜀志先主伝」)。 曹操張魯を鎮南将軍任じ閬中侯に封じて賓客として処遇したまた、張魯の5人の息子それぞれ侯に採り立てた。娘は曹操の子曹宇嫁いだ建安21年216年)に死去し、鄴の東方埋葬された。甘露4年259年)に水害開いたとき、死骸腐敗せず生きているようだったという。諡号は原侯。

※この「曹操への降伏まで」の解説は、「張魯」の解説の一部です。
「曹操への降伏まで」を含む「張魯」の記事については、「張魯」の概要を参照ください。

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