朴胡
建安五年(二〇〇)、杜濩・袁約とともに漢中の張魯に帰服した。益州牧劉璋は張魯の母と弟を殺すと、張魯は杜濩・朴胡・袁約らとともに劉璋に叛いた《華陽国志》。劉璋は龐羲・李異らに張魯を討たせたが勝つことができなかった《華陽国志》。 同二〇年七月に曹操が漢中を攻略し、張魯が巴郡に逃れると、同九月に朴胡は杜濩とともに曹操に降り、巴東太守に任じられた。十一月には張魯も曹操のもとに出頭している《武帝紀》。このとき黄権が「漢中を失えば三巴の力を失います」と進言したので、劉備は黄権を護軍に任じて張魯を迎え入れようとした。張魯が曹操に降服したあとだったので、黄権は杜濩・朴胡らを撃破した《黄権伝・華陽国志》。 朴胡は杜濩・袁約・李虎・楊車・李黒らとともに、巴夷・賨族の民を引き連れて略陽に移住した《武帝紀・華陽国志》。このとき王平も杜濩・朴胡らに従い、校尉に任じられている《王平伝》。 【参照】袁約 / 王平 / 黄権 / 曹操 / 張魯 / 杜濩 / 龐羲 / 楊車 / 李異 / 李虎 / 李黒 / 劉璋 / 益州 / 漢中郡 / 三巴 / 巴東郡 / 略陽県 / 校尉 / 護軍 / 太守 / 牧 / 賨族 / 巴夷 |
朴胡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 04:38 UTC 版)
朴 胡(ぼく こ、生没年不詳)は、中国三国時代の益州巴郡の板楯蛮の王。
経歴
巴郡の板楯蛮の首領には羅・朴・督・鄂・度・夕・龔の七姓がおり[1]、朴胡はその夷王であった。この地域の住民は賦のことを賨(ソウ)と呼んだため「賨人」と呼ばれ、剽悍で歌舞も得意とした。また、楚漢戦争時に劉邦は賨人を先鋒に用いて三秦を平定したため、租賦が免じられていた[2]。
建安5年(200年)、劉焉の後を劉璋が継ぐと、侮った張魯が傲慢となり、また巴夷の杜濩、朴胡、袁約らも張魯側に帰順した(巴の人々も張魯の五斗米道を信奉していた)[3]。劉璋は巴郡の反乱が続いたため、龐羲を太守に据えた。
建安20年(215年)、曹操の侵攻を受けた張魯は、陽平関の陥落を知ると降伏しようとした。その際に閻圃が「すぐに降ると軽んじられます。杜濩を頼り、朴胡のもとに赴いて、抵抗してから降伏した方がいいでしょう」と説得したため、張魯らは巴中に向かった[4]。その後、9月には夷王・朴胡、賨邑侯・杜濩、袁約[5]らは巴夷や住民を率いて帰順し、みな列侯に封じられた。11月には張魯らも曹操のもとに出頭し、閬中侯に封じられた[6]。
その後、曹操は朴胡を巴東太守、杜濩を巴西太守に任じ、袁約を巴郡太守に任じたが、杜濩、朴胡、袁約らは黄権に撃破された。また曹操が漢中を平定した際、杜濩、朴胡、袁約の他に、李虎(李特祖父)、楊車、李黒らも帰順し、彼らは略陽県(天水郡)に移住して「巴人」と呼ばれた[7]。
正確な時期は不明だが、215年~219年の間に、杜濩と朴胡(王平も随行)は洛陽に詣でたことがある[8]。
脚注
- ^ 『後漢書』南蛮伝「板楯蠻渠帥羅・朴・督・鄂・度・夕・龔七姓、不輸租賦、餘戶乃歲入賨錢、口四十」
- ^ 『風俗通』『晋書』李特載記
- ^ 『華陽国志』巻2
- ^ 『読史方輿紀要』卷68によると(巴西郡)閬中縣の嘉陵江のあたり。
- ^ 『華陽国志』で袁約、『資治通鑑』で任約
- ^ 『資治通鑑』巻67
- ^ 『晋書』李特載記では「巴氐」とするが『華陽国志』巻9や『太平御覧』でも「巴人」とし、そもそも巴夷は氐族ではなく、『晋書』の巴氐は巴氏の誤記ではないかと思われる。
- ^ 『三國志』王平伝。215年の帰順から黄権に撃破されるまでは記述が連続しているため、洛陽に向かうのはそれ以降か。下限は、漢中の戦いで王平が劉備に降っているため219年。あるいは略陽の誤りか。
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