侯選
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『三国志演義』の印象から西涼人のイメージが強いが、実は河東の人である。 興平年間(一九四~一九六)に関中で動乱が起こったとき、程銀・李堪らとともにおのおの千家余りの部落を領した《張魯伝》。建安十六年(二一一)、司隷校尉鍾繇が漢中の張魯を攻めようとしたとき、その矛先が自分たちに向けられることを恐れ、馬超・韓遂・楊秋・李堪・成宜らとともに挙兵した《武帝紀・馬超伝》。馬超が敗走すると、侯選は程銀とともに漢中に逃げ込んだ。漢中が打ち破られると、侯選らは曹操に降参し、みな本来の官爵に復帰した《張魯伝》。 【参照】韓遂 / 鍾繇 / 成宜 / 曹操 / 張魯 / 程銀 / 馬超 / 楊秋 / 李堪 / 河東郡 / 漢中郡 / 関中 / 司隷校尉 |
侯選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/01 15:26 UTC 版)
姓名 | 侯選 |
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時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 司隷河東郡 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 〔独立勢力〕→曹操 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
侯 選(こう せん、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将。司隷河東郡の出身。魏書張魯伝に記述がある。
正史では李堪・程銀と同郷で、それぞれ同程度の勢力を有していた。馬超・韓遂・成宜達と同盟を結び反乱を起こしたものの、曹操に敗れて程銀と共に漢中へ逃れた。しかし、後に漢中も曹操の支配下に入ったので、侯選も楊秋に倣って曹操に降り、官爵を得た。
小説『三国志演義』では、韓遂の「手下八部」の一人として登場する。長安を落城させ曹操を苦しめるが、馬超と韓遂が曹操の離間の計にかかり仲違いを起こしたため、他の旗本八旗の生き残り五人と共に韓遂に味方し、馬超と敵対することになる。その後、仲間のうち何人かは馬超との争いで死亡し、韓遂も腕を切り落とされるなど重傷を負うが、侯選は辛くも難を逃れ、楊秋と共に曹操軍へ降伏し列侯に封じられることになっている。
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