李堪とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 三国志小事典 > 李堪の意味・解説 

李堪Li Kan

リカン

(?~211

河東郡の人《張魯伝》。「李〓」とする本もある《武帝集解》。

『三国志演義』表現誘われて西涼の人と見なされているが、実際河東の人なのである

興平年間一九四~一九六)に関中混乱したとき、程銀侯選とともにおのおの千家余り部落有した張魯伝》。建安十六年(二一一)、司隷校尉鍾繇漢中張魯攻めようとしていることを知ると、その矛先自分たちに向けられているのではないか疑い馬超韓遂楊秋成宜とともに挙兵した。しかし諸将曹操計略によって不和となり、曹操前後から挟撃したため大敗、李堪・成宜らは戦死した武帝紀・馬超伝》。

参照韓遂 / 侯選 / 鍾繇 / 成宜 / 曹操 / 張魯 / 程銀 / 馬超 / 楊秋 / 河東郡 / 漢中郡 / 関中 / 司隷校尉


李堪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 17:40 UTC 版)

李 堪(り かん)は、中国後漢末期の人物。関中にて千余家の勢力を抱えていた豪族。本貫司隸河東郡[1]

建安16年(211年)、馬超韓遂らと共に反乱を起こしたが、曹操軍による挟撃を受けた際に戦死した(潼関の戦い[2]

物語中の李堪

羅貫中の小説『三国志演義』では、韓遂配下の手下八部の一員[3]。曹操配下の徐晃朱霊によって背後に陣営を築かれ、形勢不利となると、馬超・韓遂に曹操との講和を勧める。その講和を進める最中、馬超と韓遂は賈詡反間計によって対立。韓遂らが馬超暗殺を謀議しているところに、馬超が斬り込み、そこにさらに曹操軍が襲撃をかけて、乱戦となる。李堪を馬超が追いかけ、それをさらに于禁が追いかけて、馬超に向けて矢を放ったが、馬超が回避した矢が李堪に当たり、戦死に至る[4]

吉川英治の小説『三国志』では、 李湛 りたんと表記。馬超配下の旗本八旗の一員。

脚注

  1. ^ 陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書 張魯伝注『魏略s:zh:三國志/卷08#張魯
  2. ^ 『三国志』魏書 武帝紀 s:zh:三國志/卷01
  3. ^ s:zh:三國演義/第058回
  4. ^ s:zh:三國演義/第059回

李堪(り かん)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)

蒼天航路」の記事における「李堪(り かん)」の解説

涼州軍閥一人。他の軍閥勢力とともに馬超の乱に加担するが、張郃討ち取られる

※この「李堪(り かん)」の解説は、「蒼天航路」の解説の一部です。
「李堪(り かん)」を含む「蒼天航路」の記事については、「蒼天航路」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「李堪」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「李堪」の関連用語

李堪のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



李堪のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
むじん書院むじん書院
Copyright (C) 2025 mujin. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの李堪 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの蒼天航路 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS