曹操への寝返りと最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:26 UTC 版)
上記のことなどもあり、ついに袁紹を見限り曹操に寝返った。『三国志』魏書武帝紀には、許攸の強い物欲を袁紹が満足させることが出来なかったので、許攸は袁紹を裏切ったとある。そして、曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地烏巣の守備が手薄なことを教えて、奇襲をかけるように進言した。これが成功して烏巣は陥落し、楽進が淳于瓊を斬った(『三国志』魏書楽進伝)。なお、『三国志』魏書武帝紀注に引く「曹瞞伝」によると、鼻を削がれ捕えられながらも潔さを保つ淳于瓊を、曹操は性格を惜しんで処刑することを躊躇した。しかし許攸が「鏡を見れば我々を恨みますぞ」と進言したため、曹操は淳于瓊を処刑したとされる。ただし、「曹瞞伝」は史料としての信憑性に難があることを考慮する必要がある。 烏巣攻撃により、曹操軍の勝利は決定的となった。しかし許攸はその功績に驕り、また旧知(少年期の親友であったという)であったことから曹操に馴れなれしい態度を取った。しかも、自分が曹操に味方しなければ冀州攻略はできなかったといつも自慢したため、曹操は内心その態度を嫌悪した。建安9年(204年)、曹操は鄴を攻め落とし審配を斬った。許攸は鄴の東門を通った時、またしても「この男(曹操)はわしを手に入れられなかったら、この門を出入りできなかっただろう」と左右の者に自慢した。この発言を曹操に密告され、ついに処刑されてしまった。
※この「曹操への寝返りと最期」の解説は、「許攸」の解説の一部です。
「曹操への寝返りと最期」を含む「許攸」の記事については、「許攸」の概要を参照ください。
- 曹操への寝返りと最期のページへのリンク