曹操への叛逆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 03:37 UTC 版)
興平元年(194年)、曹操は徐州の陶謙を攻撃すると、陳宮に東郡の守備を委ねた。しかし、曹操軍の大部分が兗州を離れた隙を衝き、陳宮は曹操への叛逆を目論んだ。陳宮は、陳留太守の張邈、その弟の張超、従事中郎の王楷・許汜とともに反乱を計画して、呂布を盟主として迎え入れた。なお張邈の反乱の動機は、曹操が袁紹と同盟して自分を攻撃しようとしているのではないか、という不安だったとされている。しかし、陳宮本人の動機は曹操への疑いを抱いたとあるのみで、詳細が不明である。 張邈らが呂布を迎え入れて曹操に反乱を起こすと、兗州の郡県のほとんどが反乱側に付き、曹操に味方したのは鄄城・范・東阿だけであった。この3城は荀彧・程昱・夏侯惇・曹洪・薛悌・棗祗らが守り抜いた。陳宮は自ら軍を率いて東阿を攻撃したが、程昱が倉亭津の渡しを断ち切ったので行軍が遅れた。このために東阿の防備が固まってしまい、攻撃が失敗した。 興平2年(195年)、曹操は兗州へ再度戻り、呂布軍の薛蘭・李封を鉅野で撃破し、これらをすべて斬った。陳宮は呂布に従い、東緡へ出撃して曹操軍を攻撃したが、曹操軍の伏兵に遭って敗北した。その後も呂布軍は曹操軍の前に敗北を重ね、ついに陳宮も呂布とともに兗州から逃走し、徐州の劉備を頼って落ち延びた。 建安元年(196年)、呂布は劉備を駆逐して徐州を手に入れたが、まもなく配下の将である郝萌が反乱を起こした。この反乱は高順により鎮圧されたが、郝萌の下から寝返り帰参した曹性が「反乱の黒幕は袁術と陳宮」であると呂布に対し供述した。このため陳宮は顔を赤らめた。しかし結局呂布は、陳宮が大将であることを理由として、これを不問にした。
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