青州刺史として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:51 UTC 版)
父の命で伯父の養子となり、後継者から外されて青州へ派遣された。 袁譚は公孫瓚が青州刺史に任命していた田楷と、青州刺史だった孔融を攻撃、夏のある夜、城は陥落して孔融は東山に逃走し、袁譚は孔融の妻子を捕虜にした。かくて軍威は海岸にまで輝いた。このことで、袁譚は青州を平定し青州刺史に任じられた。袁譚は年長でもあり優しくて恵み深い人柄であった、袁尚は年少で美貌があった。袁紹の後妻劉氏は寵愛をえて袁尚を偏愛し、しばしば彼の才能を褒め称え、袁紹もその容姿を立派だと思って後継者にしようと考えた。そこで袁譚を兄袁基の後継者として青州に出向させた。沮授は袁紹に対して「袁譚どのを青州に赴任させることは、災いの始まりです」(後継者争いを触発しかねないことを指すものと思われる)と諌めたが、聞き入れられなかった。 袁譚は優れた人材を招くことを趣味としながらも、実際は奸臣の言葉ばかりに耳を貸す人物であったという。そのため、王修のような優れた人物を招いても意味はほとんど成さず、青州の統治でも混乱を招くばかりだった。青州は非常に荒廃しており、一万戸ある都市も戸籍に登録しているのは数百戸程度であり、租税の納入が3分の1以下であった。一方、賓客たちをよく待遇して名士を尊重したりもした。東萊郡では泰山・東海に接していたため、黄巾賊が平定されず豪族の多数が叛逆していたが、袁譚は彼らに官位を送って手懐けた(「何夔伝」)。 建安5年(200年)、袁譚は曹操の下から逃亡してきた劉備を丁重に受け入れた。袁譚は劉備が推薦した茂才であったためである。同時に、袁紹・袁譚親子は劉備を敬重したと記されている。 官渡の戦いでは袁譚も父に従って参戦した。曹操の烏巣急襲の際には烏巣救援を主張した。曹操に大敗した際は父の袁紹に随伴して北へ逃げている。袁紹は袁譚らとともに幅巾のまま馬に乗り、ただ八百騎だけを連れて黄河を渡り、青州へ引き返した。
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