青州と徐州と治める
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建安4年(199年)8月、曹操は黎陽に進軍すると、臧覇らを青州に進入させて斉郡・北海郡・東萊郡を破らせた(「武帝紀」)。 建安5年(200年)の官渡の戦いでも、臧覇らが何度も精鋭を率いて青州に侵入したため、曹操は袁紹との正面決戦に専念し、東方のことを気にせずに済んだ。 建安10年(205年)1月、曹操は南皮において袁譚を破ると、臧覇らと会って慶賀した。この時、臧覇は自らや配下の家族を鄴にすすんで赴かせたため、曹操にその忠孝を感嘆された。青州・徐州方面の治安維持に大きく貢献したので、臧覇らは列侯に取り立てられた。臧覇は都亭侯となり、威虜将軍を加えられた。 かつての配下である昌豨を于禁と共に征伐し、黄巾残党の徐和を夏侯淵と共に討伐するなど、更に功績を重ねて徐州刺史となった。同じ頃、かつての配下である孫観が青州刺史となっている。 臧覇は下邳県令となった武周を尊敬し、自ら武周の宿舎を訪問した。部従事が法を犯して武周に逮捕されたことがあり、臧覇はますます武周を評価した。 建安14年(209年)、曹操は自ら10万以上の軍勢を率い孫権征伐してきた。臧覇は巣湖に入って居巣を破った。陳蘭・梅成が曹操に対し反乱を起こしたため、張遼・于禁・張郃と共にこの討伐にあたった。孫権が陳蘭を救援しようとしたが、臧覇は皖城に入城しそれを阻止した。さらに、迎撃に来た孫権軍の韓当を逢龍・夾石で撃破し、引き返して舒県に駐屯した。孫権は万人を船に乗せて、舒口に駐屯させ陳蘭を救援しようとしたが、臧覇が舒にあったため退却した。臧覇は追撃をかけるとともに、退却する孫権軍を前後から挟撃し散々に打ち破り、溺死者を続出させたという。こうして孫権軍は陳蘭の救援に失敗し、張遼は陳蘭を斬ることができた。孫権が巣湖を固守して曹操と戦い、曹操軍も大損害を被ると、12月に曹操は孫権を攻め敗れず撤退した。 建安22年(217年)、正月の濡須口の戦いでは張遼と共に先鋒を務め、孫権の工作隊を撃退した。大雨が降って水位が上がり、孫権軍の船が迫ってきたため将士は不安になった。張遼は撤退を考えたが、臧覇は曹操が自分たちを見捨てることはないから命令を待つべきだと反対した。果たして次の日に撤退命令があり、張遼はこのことを曹操に語った。曹操はこの判断を評価し、臧覇を揚威将軍に任命し、仮節とした。結局曹操は濡須塢で孫権を攻め落れず、逆に孫権軍に撃退され引き揚げた。臧覇を引き続き留め置き、居巣に残留する夏侯惇の下に置いた。 建安25年(220年)1月、曹操が死去すると、臧覇の部下と青州兵は天下が乱れると考え、勝手に持ち場を離れた(『魏略』)。 延康元年(220年)1月、曹丕が魏王を継ぐと、臧覇は鎮東将軍に昇進し、武安郷侯に進爵し、都督青州諸軍事となった。10月に曹丕が帝位に就く(文帝)と、開陽侯に進封し、後に良成侯に改封された。 黄初3年(222年)から翌4年(223年)にかけての呉との戦いでは、曹休や張遼と共に洞浦で呂範に大勝した。さらに臧覇は曹休の命令を受け、快速船500艘と1万の兵を率いて、徐陵の呉軍を襲撃し破ったが、全琮・徐盛に追撃され大敗した(222年から223年にかけての三方面での戦い)。 曹丕が帝位に就いた時、曹休を都督青徐二州諸軍事に任命したところ、臧覇は曹休に朝廷への不満を漏らし、自分に歩騎1万余りを与えれば呉を横行できると言ったことがあった。曹丕は以前の青州兵の事件によって臧覇を疑っており、曹休から話を聞いてその勇壮さを憚り、臧覇を来朝させて兵を剥奪した(『魏略』)。 中央に召されると執金吾となり、位を特進とされた。臧覇は曹丕の軍事顧問になったという。 曹叡(明帝)の時代には500戸を加増され、3500戸となった。その後まもなく死去し、威侯と諡され、子の臧艾が後を継いだ。臧艾は若い頃から優秀で、黄門郎となり、郡守を歴任し、青州刺史となり、少府に至り、死去すると恭侯と諡され、子の臧権が嗣いだ。 正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には臧覇も含まれている(「斉王紀」)。
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