呉との戦いとは? わかりやすく解説

呉との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 04:38 UTC 版)

曹休」の記事における「呉との戦い」の解説

曹丕魏王を継ぐと、領軍将軍東陽亭侯となった。呉に備えていた夏侯惇死去すると、その後任として鎮南将軍・仮節・都督諸軍事に任命され任地赴く際には曹丕自ら手を取って見送られるという厚遇受けた夷陵の戦い直後孫権部将派遣して歴陽駐屯していたが、曹休はこれを破り蕪湖にある数千陣営焼いたという。これを見た全琮歴陽固守して臨時に敵と戦い魏軍撃ち返し敵味方とも犧牲者多かった曹休征東将軍揚州刺史任じられ安陽郷侯となったこの頃に母が亡くなり曹休飲食受け付けず憔悴し、曹丕から心配されたという。 魏は、呉に対して攻勢をかける事に決め曹仁曹休曹真夏侯尚合わせ、三路より呉を攻めた222年から223年にかけての三方面での戦い)。曹休征東大将軍となり、仮節鉞を与え張遼26余り総指揮を執った。呉の呂範徐盛全琮と共に洞口曹休迎え撃ったが、呂範船団暴風雨襲われ多くの船が転覆流されたりした。曹休張遼臧覇賈逵王凌らは一緒に呂範攻撃し約数千人溺死戦死させた。また、臧覇命じ徐陵襲撃させ勝利し再度臧覇命じ呉軍追撃し呉軍徐盛全琮臧覇反撃して破り魏軍数千人は撃破され、尹討ち取ったが、臧覇大敗した呉軍勝利乗じて曹休張遼などを撃ち破り呂範らに大敗したことにされている。大敗した曹休などは賀斉軍の威容畏れをなし、そのまま軍をまとめて敗退した曹休揚州牧に任命され、呉への備え任された。 226年曹丕崩御すると、後を継いだ曹叡明帝)から長平侯に封じられた。孫権将校の審徳が皖城に駐屯していたが、曹休はこれを破り斬首した。韓綜・翟丹ら呉の将軍は、軍勢引き連れて曹休帰順してきた。この功で大司馬昇進し所領加増得た228年司馬懿賈逵とともに三方面から呉征伐の任に当たったが、偽りの帰順をした呉の周魴誘い信じて、自ら10万の兵を指揮し、呉領深くの皖城まで進軍させた。駆け付けたばかりの賈逵周魴疑い曹休敗北備え進軍した賈逵予想した通り周魴の罠に嵌った曹休軍勢陸遜軍挟み撃ち遭い大敗したが、当時配下であった王淩奮戦と、賈逵援軍駆け付けたことにより、曹休の命だけは助かった曹休命辛々敗走してきたが、曹叡に「賈逵進軍が遅過ぎたからだ」と逆恨みしたと言う。やがて曹休は、敗戦ショックにより悪性の腫瘍患い、それが原因間もなく死去した。壮侯の諡号贈られ、子の曹肇が後を継いだ正始4年243年)秋7月曹芳斉王)は詔勅下し曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には曹休含まれている(「斉王紀」)。

※この「呉との戦い」の解説は、「曹休」の解説の一部です。
「呉との戦い」を含む「曹休」の記事については、「曹休」の概要を参照ください。

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