呉との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 16:24 UTC 版)
隣国の呉とたびたび抗争し、紀元前515年、楚に遠征した呉王闔閭の留守を狙って越王の允常は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子の勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。 闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなった。しかし勾践が臣従したことで滅亡は免れる。その後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借りて帰国に成功、夫差に面従腹背しながら逆襲の時を待った。越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉に圧迫されていた楚とも同盟を結んだ。夫差が伍子胥を殺害し中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて勾践は呉を攻めて大打撃を与えて夫差を自殺に追い込み、紀元前473年には呉を滅ぼした。 『越絶書』によると、呉を滅ぼした勾践は、越の都を瑯琊(現在の江蘇省連雲港市海州区)に遷し、更に諸侯と会盟して中原の覇者となったという。しかし、『史記索隠』の引く『竹書紀年』では勾践の4代後の翳のときに呉(現在の江蘇省蘇州市)に遷都したとあり、『越絶書』とは異なる。 勾践は讒言によって腹心の文種を粛清した。范蠡は勾践の猜疑心を知り尽くしていたために、既に斉に逃亡しており、伝説では陶朱公と称して富豪となったという。紀元前465年、勾践は死去した。勾践は越の全盛期を築くも猜疑心から優秀な人材を失っており、その後の越は徐々に衰退していく。
※この「呉との抗争」の解説は、「越」の解説の一部です。
「呉との抗争」を含む「越」の記事については、「越」の概要を参照ください。
- 呉との抗争のページへのリンク