呉との攻防とは? わかりやすく解説

呉との攻防

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 09:48 UTC 版)

満寵」の記事における「呉との攻防」の解説

曹丕文帝)の時代には揚武将軍となり、三方面から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績挙げて伏波将軍任命され新野駐屯し仮節鉞となった半年曹真夏侯尚徐晃張郃文聘とともに朱然交戦したが、戦死者数多となり、江陵攻められなかったので撤退したまた、曹丕南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた224年には前将軍昇進した曹叡明帝)が即位する昌邑侯に進封された。 228年曹休司馬懿賈逵揚州荊州豫州雍州涼州五軍指揮執り、石亭・江陵・濡須東関三方面から侵攻した満寵賈逵の軍に胡質と共に監軍として従軍し武昌目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休孫権計略にかかり大敗したため、犠牲者数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」)。また、司馬懿張郃らも江陵攻め落れずに退却した同年曹叡は濡須東関賈逵満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛行い賈逵死後豫州刺史兼任し曹休死後都督揚州諸軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士多く満寵慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛千人率いていく事が許され、その他一斉不問とされた。 230年には征東将軍となった。冬に再び孫権合肥攻め寄せる気配があったため、兗州豫州の軍を召集する事を上奏侵攻備えた孫権撤退する気配見せたので、こちらも撤退するよう詔勅下ったが、満寵孫権撤退偽装読み引き続き備えを怠らなかった。孫権10日ほどしてから再び来襲したが、合肥攻められなかったので無事に撤退した231年、呉の孫布という武将投降申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵投降偽装読んだため、王淩自重求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩兵士要求して与えてならない厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった満寵王淩はこれ以前から対立しており、満寵召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵老い疲れにより耄碌していると讒言したからであった満寵目通りした曹叡は、満寵壮健なことを確認できたため、任地返そうとした。しかし満寵このまま朝廷留まることを願った曹叡満寵馬援廉頗準え鼓舞した232年、呉の陸遜廬江侵攻してきた。部下達がすぐに救援赴くよう勧めたが、満寵落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え陽泉口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した233年孫権毎年のように合肥侵攻企てていた。合肥城は寿春遠く南にあり、江湖近接した位置にあったため、過去攻防戦においては呉の水軍機動力有利さ発揮されやすい展開が多くあった。満寵上表し、合肥城の立地欠点指摘した上で北西30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気作戦であり、味方士気削ぐことになると反対したが、満寵重ねて上奏し、兵法道理を引きながら築城長所重ねて主張した尚書趙咨満寵意見支持し曹叡聴許得た。こうして合肥新城築かれた。建設莫大な費用がかかることもあって、合肥ともども廃れていった。 同年孫権合肥攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権武威振るっているので、必ず陸に上がることに違いない判断した伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たし孫権上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。 234年孫権十万軍勢であると呼称合肥新城攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢諸葛亮の北伐五丈原の戦い)は孫権呼応して(「満寵伝」)、二十軍勢であると呼称祁山攻め寄せてきた。合肥魏軍苦戦に陥り、これを恐れていた満寵合肥新城放棄し寿春撤退する作戦願い出たが、曹叡拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城救援に赴き、数十人の義勇兵募りと麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍攻城兵器焼き払った上、さらに曹操孫権の甥の孫泰射殺した張穎とともに力を尽くして戦ったが、呉軍依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権大損害を受ける事を避けて曹叡援軍到着する前に撤退した合肥新城戦い)。 235年春、孫権江北に兵を送り屯田始めさせた。満寵は、収穫の時期に衛兵達が各地点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物焼き払った詔勅により軍功称され鹵獲品は全て将兵恩賞とされた。 曹叡没し曹芳斉王)の時期になった238年3月老年のため中央召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別に物資下賜された。加増による領邑9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。 242年3月死去した景侯諡号贈られた。 子孫満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉人品優れており衛尉まで上り満長武満寵風格有していたという。しかし、司馬昭疎まれ殺害され、父の満偉もまた失脚し平民落された。満奮満偉の弟の子であり、やはり満寵風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋の時代尚書司隷校尉となったまた、満寵もう一人の子満炳別部司馬となった

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