烏山騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 08:45 UTC 版)
貞享4年(1687年)8月25日、養子の資徳が那須家の家督を相続したが、実子で次男の資寛とその生母が、資徳の家督相続を不当であると幕府に訴えたことより、藩領内に隠されていた次男の存在が発覚した。これは幕府に対する虚偽申請であり、同年10月14日に幕府は那須家を改易処分とした。資徳は生家の津軽家に預けられ、津軽信政は叱責処分を受けた。十数年後の元禄13年(1700年)5月20日、幕府に対する津軽家の長い嘆願により、資徳は旗本1千石として再度取り立てられて、那須氏の家名は復活した。 その後も交代寄合那須衆の那須氏と津軽藩は関係を保ち続け、明治維新を迎えたのち、那須家は津軽氏を頼って青森県に移住している。
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