許應騤
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許 應騤(きょ おうき、1830年2月3日 - 1903年7月22日) は、清の政治家。字は均庵、号は昌徳。外交では李鴻章と共にイギリスとの間で展拓香港界址専条を締結し、義和団の乱では東南互保を主張して列強との開戦に反対した。1898年から1903年の間は閩浙総督の役職を務めた。
生涯
1830年に現在の中国広東省広州市の名家に生まれる。1849年に郷試に合格。1896年には清国全権として李鴻章と共にイギリスの駐清公使クロード・マクドナルド(当時。後に駐日公使に就任)との間で展拓香港界址専条を締結するなど、外交面で成果を残した。
1898年、閩浙総督に就任。 福建巡撫、福州将軍、福州船政大臣を兼任し、封疆大吏となる。 5年にわたる閩浙総督の任期で、清末期の激動の情勢に対応した。
1900年に列強との間で義和団の乱が勃発した際には李鴻章、袁世凱、劉坤一、張之洞らと共に東南互保を主張し、開戦の反対を主張した。
1903年に同じく現在の中国広東省広州市で死去。73歳没。
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