官渡の戦いへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 14:01 UTC 版)
このように曹操は局地的な勝利を積み重ねたものの、袁紹の主力は未だに健在であり、さらに袁氏の本籍である豫州においてはほとんどの郡が袁紹に呼応する動きを見せていた。劉備は袁紹の命令で豫州の黄巾の残党を集め曹操の背後を脅かした。さらに袁術の勢力を吸収した揚州の孫策も不穏な動きを示しており、許都を狙うという風聞がもっぱらであった。 戦力と物量で勝る袁紹に対し、曹操は官渡への戦略的撤退を余儀なくされた。袁紹は黄河を渡って陽武まで進出した。関羽は旧主の劉備の消息が判明したため、曹操の下を去っている。 于禁や徐晃といった諸将の奮戦や、荀彧・鍾繇・李通・趙儼らの後方支援にも関わらず、曹操は目だった戦術的な勝利も得られぬまま兵糧が先に枯渇する状況に陥ってしまった。しかし、袁紹陣営の内情は、既に南下策の是非をめぐって田豊と沮授が相次いで遠ざけられるなど配下同士の対立が深刻であった。袁紹は200年冬10月に淳于瓊ら5名の将に命じて烏巣において兵糧の輸送に従事させたが、袁紹に見切りをつけた許攸は密かに陣を抜け出し、曹操に袁紹軍の輸送作戦を知らせ、淳于瓊らの攻撃を勧めた。曹操はこの進言を受けて烏巣を襲撃し、これを成功させた(烏巣の戦い)。袁紹はこのときも郭図と張郃が対立するなど統制を欠き、作戦が一貫しないまま軍を動かし、結局、烏巣の兵糧を失うと同時に多くの軍勢を失い、敗走を余儀なくされた。
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