流浪の旅とは? わかりやすく解説

流浪の旅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)

足利義昭」の記事における「流浪の旅」の解説

7月21日義昭本願寺から派遣された兵に警固され、三好義継居城若江城入った同日信長槇島城細川昭元委ね、京へと戻っている。 義昭は在城中7月24日付の御内書毛利輝元2人叔父吉川元春小早川隆景援助求めている。これが義昭再起宣言した第一であった7月28日朝廷信長要請応じ元亀から天正改元行った信長のこの行為義昭権威否定、反信長勢力士気挫く目的があったと考えられる8月1日義昭は輝元に援助依頼し3日にも柳沢元政下向させると告げた毛利氏義昭のもとに使者送って慰問したので、8月13日謝意示している。義昭毛利氏頼りにしたのは、兄の義輝頼りにしていたからだと推測される8月信長朝倉氏滅ぼし9月には浅井氏滅亡したことにより、信長包囲網瓦解した8月20日義昭顕如対し三好義継及び三好康長畠山氏との間で講和を図らせている。 10月8日義昭上杉謙信対し自身槙島城から退城したことを知らせとともに援助求めたまた、同月顕如に対しても、忠義尽くすように求めた義昭援助依頼受けた輝元ら毛利氏は、なんらかの行動に出なければならなくなった織田氏毛利氏同盟関係にあったが、義昭が京を追放されると、その関係は揺れ動いた。だが、義昭のために信長敵対して上洛するより、輝元は信長の力を利用し領国を守る道が最適考えた。そのため、9月7日付の義昭御内書では、毛利氏信長懇意にしていることや、かつて毛利氏将軍家疎かにしないと提出した起請文反故にされていることが批判されている。 他方、輝元が羽柴秀吉充てた同9月7日付の書状では、信長義昭和解し義昭が京に帰還できるよう仲介試みている。輝元としては、義昭中国地方下向すれば、信長全面戦争になる可能性があり、それを避ける必要があった。信長また、義昭追放畿内動揺している今、輝元が義昭奉じて織田氏との全面戦争踏み切ることは避けたかったと考えられる。 そのため、信長と輝元の両者との間では全面戦争避けるべく交渉がなされ、それは義昭帰洛させようとする流れ繋がった織田方は羽柴秀吉朝山日乗毛利方は安国寺恵瓊それぞれ交渉の代表となった秀吉9月7日付の書状で、信長同意得ているので、義昭近臣上野秀政真木島昭光上洛させるように伝えている。他方、輝元も9月晦日付の自筆書状で、交渉に臨む基本的な態度一族穂井田元清伝えている。 10月28日毛利氏義昭近臣一色藤長信長意向伝え、その同意求めた。これを受けて11月5日義昭若江城から和泉の堺へ入った義昭和泉の堺に落ち着くと、信長からは羽柴秀吉朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊林就長派遣され双方使者はともに義昭面会し信長和解したうえでの帰京説得した信長自身義昭帰京認めていたが、義昭信長からの人質求め、それを撤回しなかった。 このとき、秀吉は「入洛のことはもはや問題にならないので、どこにでも行ったよかろうと言い捨て翌日大阪退去した。安国寺恵瓊朝山日乗秀吉意を受けて、なお一日留まって無条件での帰洛説得したが、義昭受け入れず交渉決裂した恵瓊は輝元の命令重んじ義昭西国下向されると迷惑である旨を告げた11月9日義昭主従20人程とともに堺を出て畠山氏勢力下である紀伊海路下り在田川南岸宮崎の浦に着いたのち、由良興国寺滞在した義昭側近一色藤長対し槙島城籠城から由良まで供奉したことを、11月29日付の書状褒め称えている。信長紀伊への下向把握しており、出羽伊達輝宗京都近況報告した際、「義昭紀州熊野あたりを流浪している」と記している。 11月16日信長明智光秀細川藤孝若江城攻めさせ、三好義継自害させた。義昭を匿った責任追及してのことであり、義昭若江城から堺に移るのを待ったうえで、攻撃実行移された。 12月11日義昭湯川直春対し自身協力するように命じた畠山氏重臣湯川氏勢力強大であり、直春の父・湯川直光紀伊出身ありながら河内守護代を務めたこともある実力者であった12月12日義昭上杉謙信対し武田勝頼北条氏政及び加賀一向一揆講和し、上洛するように命じた天正2年1574年1月16日義昭六角義賢対し紀伊移ったことを報告し協力するように命じた2月6日義昭熊野本宮神主対し帰洛尽力するように命じた3月20日義昭信長包囲網再度形成するため、武田勝頼北条氏政上杉謙信三者対し互いに講和をするよう呼びかけた(甲相越三和)。 4月14日義昭薩摩島津義久対し武田勝頼進出大阪方面での戦況伝えとともに帰洛に関して協力命じた5月21日織田徳川連合軍長篠の戦いにおいて、武田勝頼軍勢破った。この打撃は、義昭とその味方にとっては深刻な打撃であった11月信長朝廷より従三位権大納言右近衛大将任じられ従三位権大納言左近衛中将義昭よりも上位存在となった権大納言右近衛大将官位過去200年間、足利将軍本人その後継者などにしか与えられてこなかったが、信長与えられということはほかの大名とは別格であるということ織田氏将軍家比肩する存在であるということ世に示したまた、義昭の父・義晴息子義輝将軍職譲った際、権大納言右近衛大将兼ねて大御所」として後見した(現任将軍であった義輝には実権はなかった)先例があり、信長この先例に倣おうとしたとする見方がある。

※この「流浪の旅」の解説は、「足利義昭」の解説の一部です。
「流浪の旅」を含む「足利義昭」の記事については、「足利義昭」の概要を参照ください。

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