流浪の前半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 00:12 UTC 版)
實は義母カツ(未入籍)と折り合いが悪く、家にあまり寄り付かず親戚や知人の間を転々とする流浪の生活を送るようになる。朝井が後年語ることには、十代の終わりから二十代前半にかけて「宗教に凝ったり哲学に凝ったり」した時期があり、長谷川如是閑の家に出入りしていたこともあるという。 大正8年(1919年)、広島で交遊していた後の陶芸家河野公平とともに上京。東京府北豊島郡日暮里町(現在の東京都荒川区東日暮里)に住む叔父(母の弟)吉田治郎八とその妻マサの元に身を寄せ、一時的に岡田三郎助の本郷洋画研究所に学ぶとともに、斎藤与里にも師事する。大正9年(1920年)1月19日に父が死去したため、11月に家督を相続する。 大正14年(1925年)に再び上京し、翌年9月、第13回二科美術展覧会で20号の風景画『廃園に於て』(平塚市美術館)が初入選する。このときすでに「朝井閑右衛門」の雅号を使用していた。大正15年(1926年)、法政大学文科を中退。 昭和3年(1928年)ごろ、小田原に移住する。御幸の浜の海水浴場でスケッチをしていたところ、神経衰弱のため小田原の実家に帰省していた小説家牧野信一と出会い、牧野の出世作『父を売る子』を読んでいたこともあってすぐに意気投合する。牧野の他にも小説家の川崎長太郎、詩人の福田正夫、藤浦洸、彫刻家の牧雅雄、看板屋の山内直孝(坂口安吾の短編『真珠』に登場するガランドウのモデル)、さらにはデビュー前の女優・志賀暁子など、小田原付近在住の若き芸術家や文化人と交流する。また、『文藝春秋』昭和5年4月号に掲載された牧野の一文「朝居の話」には「朝居閑太郎」の名で登場する。
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