斎藤与里とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 斎藤与里の意味・解説 

斎藤与里

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/25 09:57 UTC 版)

斎藤 与里(さいとう より、1885年明治18年)9月7日[1]-1959年昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家美術評論家。本名は齊藤與里治[2]

経歴

埼玉県北埼玉郡下樋遣川村(現・加須市)生まれ[2]。1905年京都に出て聖護院洋画研究所に入り[3]浅井忠鹿子木孟郎に洋画を学ぶ[2]。翌年の1906年には鹿子木とともにフランスへ渡った[2]。1908年8月に帰国した後は「白樺」誌上で、ポスト印象派フォーヴィスムの作品を紹介した[2]。1912年、岸田劉生らとフュウザン会を結成[2](翌年解散[3])。1915年第9回文展に初出品した「朝」が初入選[2]、1916年第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選[2]、1927年第8回帝展でも「水郷の夏」が特選となる[2]。1924年に槐樹社(1924-1931年)を設立し[2]、機関誌『美術新論』の主幹として美術評論も行った[2][4]。解散後、1932年に東光会(1932年-)を創設した。

この間、大阪美術学校(大阪芸術大学の前身・大阪美術学校とは別で、1944年廃校。跡地は枚方市立御殿山生涯学習美術センター)の創立に協力し、1926年に教授となった。

1937年(昭和12年)、この年から始まった新文展の審査員に就任[5]

1959年(昭和34年)4月に加須市名誉市民第1号に推挙されたが、同年5月3日に死去[2]

記念施設

生家跡(2015年8月)

生家跡は斉藤与里記念公園(建物はなく、門のみ)になっている。

参考文献

  • 『日本人名大辞典』講談社
  • 中村屋サロン美術館『生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし』中村屋サロン美術館、2015年。 

脚注

  1. ^ (中村屋サロン美術館 2015, p. 52)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 近代洋画の旗手/斎藤与里の紹介”. www.city.kazo.lg.jp. 加須市. 2024年5月2日閲覧。
  3. ^ a b selection2016(後期)国立公園絵画”. 小杉放菴記念日光美術館. 2024年5月2日閲覧。
  4. ^ (中村屋サロン美術館 2015, p. 55)
  5. ^ 審査員の顔ぶれ内定『東京朝日新聞』(昭和12年7月27日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p665 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

外部リンク



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「斎藤与里」の関連用語

斎藤与里のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



斎藤与里のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの斎藤与里 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS