若き芸術家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 06:09 UTC 版)
「バーバラ・ヘップワース」の記事における「若き芸術家」の解説
ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学んだ後、ヘップワースは1924年からウェスト・ライディングの留学奨学金でイタリアのフィレンツェに旅した。ヘップワースはローマ賞の次点候補にもなったが、優勝は彫刻家のジョン・スキーピングであった。シエナとローマをともに旅した後、ヘップワースは1925年5月13日にフィレンツェでスキーピングと結婚した。イタリアでは、ヘップワースは熟練した彫刻家であるジョヴァンニ・アルディーニに師事し、大理石彫刻を学んだ。ヘップワースとスキーピングは1926年にロンドンに戻り、自分のフラットで共同個展を開いた。息子のポールが1929年、ロンドンで生まれた。 ヘップワースの初期の作品はヨーロッパ大陸の芸術運動や抽象化から強い影響を受けているものであった。1933年にヘップワースはベン・ニコルソンとフランス旅行をし、ジャン・アルプ、パブロ・ピカソ、コンスタンティン・ブランクーシのスタジオを訪問した。ヘップワースはのちにパリに基盤を持つ芸術運動である「抽象・創造」(Abstraction-Création) にかかわるようになった。1933年にヘップワースはニコルソン、ポール・ナッシュ、批評家のハーバート・リード、建築家のウェルズ・コーツと「ユニット・ワン」芸術運動の共同創始者となった。この運動はブリテンの芸術において抽象化とシュールレアリズムを結合させようとするものであった。 ヘップワースは英国の人々に大陸の芸術家のことを伝える活動も行った。1937年、ヘップワースは構成主義の芸術家に関する300頁もある著書で、ニコルソン、ナウム・ガボ、レスリー・マーティンが編集してロンドンで刊行されることになった Circle: An International Survey of Constructivist Art のレイアウトデザインを手がけた。 ヘップワースは北ロンドンのハムステッド登記所で1938年11月17日にベン・ニコルソンと結婚した。ニコルソンはその前に妻のウィニフレッド・ニコルソンと離婚していた。1934年にヘップワースとニコルソンの間にレイチェル、サラ、サイモンの三つ子が生まれた。レイチェルとサイモンも長じてから芸術家になった。夫妻は1951年に離婚した。
※この「若き芸術家」の解説は、「バーバラ・ヘップワース」の解説の一部です。
「若き芸術家」を含む「バーバラ・ヘップワース」の記事については、「バーバラ・ヘップワース」の概要を参照ください。
- 若き芸術家のページへのリンク