若き日の苦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:35 UTC 版)
それでも12歳で公立学校を卒業し、葉巻を製造するメッサーズ・フリーマンズ葉巻製造会社に就職。しかし2年後には右腕の変形が進んで離職せざるを得なくなり、父の支援の元に行商人の免許を取得、父の衣料品店の商品である靴下や手袋などを売り歩いた ものの、容姿が災いして営業は困難を極めた。やがてかねてからの継母との不仲 もあり家出、簡易宿泊所を泊まり歩く生活をへて、以前からメリックに好意的であった叔父のチャールズ・バーナバス・メリック(Charles Barnabas Merrick)の家に同居人として迎えられたが、このころには症状の進行により、彼が街頭に立つと周囲にパニックが発生するほどになっており、ほどなく行商人免許を剥奪された。やがて自らの意思で叔父の家を出、レスター市救貧委員会に出頭、就労不能を理由に救済を申し立てて受理され、1879年12月、17歳でレスター・ユニオン救貧院に入った。
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