若き日の遊興とは? わかりやすく解説

若き日の遊興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:58 UTC 版)

酒井抱一」の記事における「若き日の遊興」の解説

酒井雅楽頭家は代々文雅理解者多く、兄・忠以も茶人俳人として知られ当時大手門前の酒井家藩邸文化サロンのようになっていた。一般に若い頃抱一は、大名子弟悪友たちと遊廓に通う放蕩時代と言われるが、兄の庇護のもと若い頃から芸文世界接近していく。 絵は武家倣い狩野派につき、中橋狩野家の狩野高信(1740-1794年)や狩野惟信手解き受けたようだが、酒井家長崎派宋紫石紫山親子頻繁に屋敷招いており、兄忠以には南蘋風の作品が残る。また、天明3-4年1783年-1784年)の頃から浮世絵師歌川豊春師事し師風忠実に模す一方で波濤描き方には長崎派影響見え肉筆美人画松風村雨図」(細見美術館所蔵豊春の「松風村雨図」(浮世絵太田記念美術館)の模写)なども描いている。抱一肉筆浮世絵10点ほど現存するとされ、それらは馴染み遊女取り上げながらも気品ある姿で描き知人大田南畝狂詩を加賛している。抱一美人画は、初期礒田湖龍斎風の作例末期鳥文斎栄之通じ作品除けば豊春作と見紛うばかりの高い完成度を示すが、自分独自の美人画様式産み出そうとする関心はなく、遊戯的殿様芸的な姿勢抜けきれていない画号新たに持たず俳号狂歌名を落款使い回す態度もそれを裏付けている。 俳諧元服と同じ時期ごろ大名の間で流行していた江戸座俳諧馬場存義に入門次第江戸座遠祖宝井其角追慕し其角都会的機知富み難解な句風を、抱一はあっさり解き自在に味読自身創作にも軽やかに生かした書き始めたのは寛政2年だが、それ以前の句も含む句日記軽挙館句』(静嘉堂文庫蔵)を晩年まで記し続け抱一芸術を語る上で大きなとなっている。後の文化9年1812年)にここから自選した『屠龍之技』を刊行した狂歌においても、当時全盛期迎え後に「天明狂歌」と呼ばれる狂歌連深く交わり狂歌本抱一の句や肖像収録され並行して戯作中に抱一の号や変名少なからず登場する。その歌は必ずしも一流とは言えないが、しばしば狂歌本冒頭載せられ、その肖像御簾越し美男子として描かれるなど、貴公子としてグループ内で一目二目置かれていたことを表している。

※この「若き日の遊興」の解説は、「酒井抱一」の解説の一部です。
「若き日の遊興」を含む「酒井抱一」の記事については、「酒井抱一」の概要を参照ください。

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