若き日の活躍
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「ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事における「若き日の活躍」の解説
ガリバルディは1807年、オクシタニアのニース(当時第一帝政下のフランス領)に生まれる。彼の両親はそこで海上貿易に携わっており、彼も常に海の上で育った。1832年には商船隊のキャプテンとなる。 1833年4月、ガリバルディの船はロシアの海港タガンログに10日間ほど停泊した。荷を降ろしている間、彼は街を歩き、そこに住む人々を訪ね、そして港の小さな宿で夜を過ごした。そんな宿の1つで、彼はイタリアからの政治亡命犯で青年イタリアのメンバーであるジョヴァンニ・バッティスタ・クーネオ(イタリア語版)と出会う。これを機にガリバルディは青年イタリアに参加し、彼の人生をオーストリアの支配をうける祖国イタリアの自由のために戦うことを誓った。 1833年11月、ガリバルディは自由な共和国の建国を目指す運動家のジュゼッペ・マッツィーニとジェノヴァで会見する。ここで青年イタリアへの参加を認められ、同時に秘密結社カルボナリにも加わった。1834年、彼はピエモンテの共和制を求める反乱に参加したが失敗する。フランスに亡命し、その後チュニジアへ出発した。 1836年、ガリバルディは南米への航海をした。そこで彼はブラジルの羊飼いの娘、アニータ(英語版)と出会い恋に落ちる。そして1842年に結婚した。その後ブラジル南部のリオ・グランデ・ド・スル州の独立戦争に義勇兵として参加し、そのままウルグアイのコロラド党大統領フルクトゥオソ・リベラに雇われて大戦争に参加した。大戦争ではアルゼンチンのコリエンテス州をウルグアイに併合し損ねるというような失敗もあったが、そこでゲリラ戦術のスキルを身につける。彼は用兵術に長けており、カリスマ性もあったことから部下の信頼を勝ち取り、彼もまた自信をつけていった。後の南米の革命児チェ・ゲバラも彼の戦術を学んだといわれる。
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若き日の活躍
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「アレッサンドロ・モレスキ」の記事における「若き日の活躍」の解説
1873年7月、アレッサンドロは15歳になる前に、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の聖歌隊にソプラノとして採用された。しばらくすると、独唱を任されるようになる。また、カポッチが指導し、ローマの上流階級のサロンを中心に活動していた、ソリストたちの声楽グループの一員にもなった。彼が歌った、グノーのオペラ『ファウスト』の中のマルグリートのアリア「宝石の歌」を聴いたあるアメリカ人女性が次のように書き残している。 土曜の夜サロンにて、教皇庁聖歌隊の歌手たちの歌を聴きましたが、大変素晴らしいものでした。 ラテラノ大聖堂のソプラノとして有名なモレスキは、ひとつひとつの音に涙をこめて歌い、ブレスはどれも、ため息をつくかのようです。 「宝石の歌」は、純朴な少女マルグリートが、悪魔メフィストの残した宝石を身に付け、鏡に映る美しいわが姿に感動して歌うアリアである。「ああ、この鏡に映るあたしの姿は、なんて美しいのでしょう! この淑女の姿を彼(ファウスト)が見てくれたら、きっときれいだと言ってくださるわ!」と、フランス語で歌うモレスキを聴いた先の女性は、「いえ、ちっとも! と答えて差し上げたくなる」と記している。 また彼は、1878年にはイタリア王国の初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の葬儀で歌っている。 モレスキは、その声の美しさから「ローマの天使」と謳われていたが、それはゆえなきことではない。1883年に彼は、ベートーヴェンのオラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』における熾天使セラフィムの役を歌った。3点E(E6)とコロラトゥーラの技法が要求される難役を見事につとめたことで、以後彼の名が新聞に載るときにはいつも、この二つの名で呼ばれるようになった。 この成功のあとで、彼はシスティーナ礼拝堂聖歌隊のオーディションを受けた。当時、礼拝堂聖歌隊を指導していたのは、イタリア随一の声楽教師と名高い、教皇聖歌隊終身指揮者のドメニコ・ムスタファだった。彼自身、素晴らしいソプラノの声を持ち、ヘンデルのアリアに超絶技巧の即興を加えて歌ったことで知られている(バロック時代の名歌手(主にカストラート)たちは、アリアに様々な変奏を加え、その声の美しさと技術の素晴らしさ、クリエイティヴな才能とセンスの良さを披露するのが常だった。こうした伝統は、19世紀初めまで続いたが、器楽の肥大化と和声の複雑化に伴い、失われていった。ムスタファはそれを復活させてみせた)。 モレスキはムスタファに才能を認められ、システィーナ礼拝堂聖歌隊の第一ソプラノを任命された。礼拝堂聖歌隊にはすでに6人のカストラートの歌手が在籍していたが、彼らはそれほど卓越した声の持ち主ではなかった。
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