植芝盛平
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植芝 盛平(うえしば もりへい、1883年〈明治16年〉12月14日 - 1969年〈昭和44年〉4月26日)は、日本の武道家。合気道の創始者。合気道界では「開祖」(かいそ)と敬称される。
- ^ 1926年(大正15年)から1941年(昭和16年)頃まで使用。『植芝盛平伝』220頁。
- ^ 「猿田彦大神の御神示として、昭和二十八年一月二十一日に常盛と命名が下された」『合気道で悟る』49頁。
- ^ 「世界に広がる合気道」(公益財団法人合気会)。1986年に公益財団法人合気会傘下の国際合気道連盟(IAF)が、GAISF(各国際競技団体連合)に正会員として加盟。1989年には「第3回ワールドゲームズ大会」(西ドイツ、カールスルーエ市)に初参加した。合気道の沿革ダウンロード - 合気会,公益財団法人 合気会 - 日本ワールドゲームズ協会
- ^ “【特集】世界遺産登録から3年 再発見、世界遺産「高野・熊野」”. 和歌山県. 2015年3月14日閲覧。
- ^ 『植芝盛平伝』313-315頁)
- ^ 出典:『植芝盛平伝』61頁
- ^ 「武術秘伝書夢世界」第57話「明治期、浅草公園奥で催された柔術試合興行。プロレス興行の先駆けとも言える武道大会の宣伝ポスターの中に現代合気道の源泉に連なる人脈の存在を発見す」
- ^ 東京での武術修行…植芝吉祥丸は「開祖は(中略)起倒流の戸張滝三郎氏の門をたたくことになる」「開祖は生前この人を戸澤徳三郎だといっていたが、私が調べたかぎりではその名の柔術家は当時いなかった。おそらく、浅草の道場でかなり名の知られていた戸張滝三郎氏の名を記憶違いしていたものと思われる」と述べている[6]。これに対し、「月刊秘伝」(2001年10月1日号、BABジャパン)における平上信行による記事[7]を、大宮司朗が『「技」と「言葉」』18-19頁で紹介している。
「…番付選手の名前を見てゆくと驚いたことに西の前頭の筆頭として何と『戸澤徳三郎』の名が見えるのである。(中略)戸澤徳三郎師範はこの時期の東京に確かに実在し、柔術選手として柔術大会に出場し柔術文化の興隆に努めていたのである。(中略)この大会は天神真楊流系の大会と見られるから戸澤徳三郎も恐らくは天神真楊流の師範ではなかったかと見られる。」
- ^ 神陰流剣術…大宮司朗は「加藤田神陰流」であるとしている。(出典:『「技」と「言葉」』20頁)
- ^ 惣角との邂逅年…『植芝盛平伝』95頁には「明治四十五年(一九一二年)二月」とあるが、同書302頁には「明治四十五年=大正元年(一九一二)」「五月二十日ごろ」北海道に入植した、とあり時系列が合わない。ここでは『合気道教室』13頁の記述「大正4年2月」を採用する。
- ^ 判事を教える有能な人物…出典:『合気道教室』13頁
- ^ 出口王仁三郎との出会い…盛平の祈祷依頼に王仁三郎は一言「あなたのお父さんは、あれでよいのや」と父の天命を悟らせたという。盛平は綾部に3日間留まり、与六の臨終には間に合わなかった。(出典:『植芝盛平伝』110頁)
- ^ 綾部で惣角講習会…出典:『合気道教室』15頁
- ^ 『霊界物語-入蒙記』第22章
- ^ 『霊界物語-入蒙記』第15・17章
- ^ 王仁三郎に「塩水を何杯飲めるか」という勝負を挑んできた「バラモン修行者」と自称する男に対し、盛平が身代わりとなってこれを競い、胃腸を傷めたのが原因とされる。(『植芝盛平伝』187頁)
- ^ この御所での指導は盛平と大本教の関わりを警戒する内務省・検察から反対された経緯があり、憤慨した盛平は数日で綾部に帰った。
- ^ a b c 山荘を廻る人々 合気道の開山植芝盛平(後編)品川義介、『野人の叫び』1957年1月号
- ^ 新陰流とは? - 新陰流兵法転会公式サイト 2018年8月19日閲覧。
- ^ 柳生新陰流を学ぶ…『合気道教室』17頁
- ^ http://www.dou-shuppan.com/aikido/um.html
- ^ 惣角大阪朝日新聞に来訪…この後惣角と盛平が会った記録はない。出典:『武田惣角と大東流』36頁
- ^ a b c d 源田実「盧溝橋事件勃発」『海軍航空隊、発進』文藝春秋〈文春文庫〉、1997年8月(原著1961年)、214-217頁。ISBN 4-16-731004-X。
- ^ 「昭和12年7月28日(水)海軍辞令公報 號外 第十一號 p.18」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072100
- ^ 鹿島新当流に入門…実際の稽古は新当流の青木政重と飯田という高弟の指導で赤沢や吉祥丸が習い、盛平は見ているだけで技を覚え、青木らが帰った後で赤沢らと技の研究を行ったという。(出典:合気ニュース『植芝盛平と合気道 1』18,211-212頁)
- ^ 『陸軍中野学校』中野校友会編 1978年 36頁
- ^ 惣角の死…出典:『武田惣角と大東流』36-38,308頁
- ^ 以後毎年開催され、観客の増加に伴い日比谷公会堂を経て1972年(昭和47年)からは日本武道館で行われている。
- ^ 田辺市HP | スポーツ振興課 | 合気道開祖・植芝盛平翁 2012年11月28日閲覧。
- ^ 公益財団法人 合気会 | お知らせ | 開祖像建立実行委員会代表報告 2012年11月28日閲覧
- ^ 天竜を投げる…出典:『植芝盛平伝』245-249頁
- ^ 女性の初段前からの袴着用…出典:『氣の確立』93頁
- ^ a b 『開祖の横顔』86頁、黒岩洋志雄の証言。
- ^ ちなみに植芝の門弟・塩田剛三とも、拓殖大学の先輩・後輩という関係から親交があった増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』、新潮社
- ^ 堂本昭彦『鬼伝 中倉清烈剣譜』、スキージャーナル 97-98頁
- ^ a b c d “合気道開祖の顕彰施設建設へ 田辺市、新武道館に併設”. 紀伊民報. (2017年1月6日) 2017年1月8日閲覧。
- ^ a b c “合気道開祖・植芝盛平翁について”. 田辺市. 2017年1月8日閲覧。
- ^ 武道練習…志々田文明・成山哲郎 『合気道教室』 ISBN 4469162884、20頁。
- ^ (財)合気会/合気道図書館/Budo Training in Aikido
- ^ 他一名…『武道解説編』14頁には「大久保という男性」とある。
- ^ 技術書『武道』…出典:『武道解説編』14-28頁
植芝盛平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 20:16 UTC 版)
合気道創始者として建国大学で指導にあたる。かつて出口王仁三郎とともに満蒙分離工作に関与(パインタラ事件)した際に、ウムボルトの父・深見圭介と交流があり、ウムボルトを厳しくも優しく見守る。石原と親しく、石原の身辺を護衛することも引き受けている。
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