植芝盛平の養子となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 04:55 UTC 版)
1931年(昭和6年)、中山博道と親交のある合気道創始者植芝盛平が新宿若松町に皇武館道場を開いた。1932年(昭和7年)、清は中山の紹介で皇武館に通い始めた。 この頃植芝は、実子吉祥丸の将来を占うには早すぎたことから、自身の後継者となり得る人物を探していた。中山の仲介で同年10月、剣道を続けてもよいとの条件で清は植芝の婿養子となった。植芝と中山の名前から一字ずつ貰い、「植芝盛博」と名乗った。 当時の合気道本部は剣道の稽古も実施しており、清は羽賀らと共に「皇武館剣道部」として剣道大会に出場し、優勝している。1933年(昭和8年)には、第7回明治神宮体育大会剣道競技一般30歳未満の部に植芝盛博の名で出場し、優勝した。 1934年(昭和9年)7月11日、皇宮警察を退職。植芝盛平の側近として皇武館の経営に専念するためであったといわれる。清は合気道を学ぶと共に、日本体育専門学校(後の日本体育大学)、東京商科大学(後の一橋大学)の剣道部師範を務めた。 1935年(昭和10年)5月、宮内省済寧館剣道大会で優勝。7月、学生を連れて静岡、名古屋、大阪、神戸、京都の各武徳殿を武者修行する。 1936年(昭和11年)8月、持田盛二の紹介で香川県高松市の植田平太郎を訪ね、剣道の稽古をする。その後間もなく植芝家と離縁し、「中倉清」に戻った。同年10月27日、再び皇宮警手に任官した。
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