紋別郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/05 16:57 UTC 版)
紋別郡(もんべつぐん)は、北海道(北見国)オホーツク総合振興局の郡である。
人口36,645人、面積3,912.64km²、人口密度9.37人/km²。(2024年5月31日、住民基本台帳人口)
以下の5町1村を含む。
滝上町・興部町・西興部村・雄武町は西紋と呼ばれる場合がある。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね上記5町1村に紋別市を加えた区域にあたる。後に常呂郡との間で境界変更が行われている。現存する日本の郡では最も面積が大きい[1]。
歴史
郡発足までの沿革
江戸時代の紋別郡域は西蝦夷地に属し、当初は松前藩によって開かれたソウヤ場所に含まれたが、後にモンベツ場所が新たに分立した。
江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え文化4年紋別郡域は天領とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩が紋別に出張陣屋を築き警固をおこなった。同6年の6藩分領以降は会津藩領であった。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して紋別郡が置かれた。
郡発足以降の沿革
- 明治2年
- 明治3年8月 - 再び開拓使の管轄となる。
- 明治5年
- 明治8年(1875年)- 漢字表記が定まっていなかった村名に漢字を当て、紋別村、藻鼈村、渚滑村、興部村、瑠橡村、沙留村、湧別村とする。
- 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
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- 第27大区
- 4小区 : 紋別村、藻鼈村、瑠橡村、渚滑村、幌内村、興部村、沢木村、湧別村、沙留村、雄武村
- 第27大区
- 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての紋別郡が発足。
- 明治13年(1880年)7月 - 網走郡外三郡役所(網走斜里常呂紋別郡役所)の管轄となる。
- 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により根室県の管轄となる。
- 明治19年(1886年)
- 明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、網走支庁の管轄となる。
- 明治39年(1906年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、湧別村、渚滑村(第1次)(いずれも二級村、単独村制)が発足。(2村)
- 明治42年(1909年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、紋別村、藻鼈村の区域をもって紋別村(二級村)が発足。(3村)
- 明治43年(1910年)4月1日 - 湧別村の一部(湧別原野基線6号線以南)が分立して上湧別村(二級村)が発足。残部は改称して下湧別村(二級村)となる。(4村)
- 大正4年(1915年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、以下の町村が発足。(6村)
- 大正7年(1918年)4月1日 - 渚滑村の一部が分立して滝上村(二級村)が発足。(7村)
- 大正8年(1919年)
- 大正10年(1921年)4月1日 - 紋別町が北海道一級町村制を施行。
- 大正14年(1925年)1月1日(1町9村)
- 昭和7年(1932年)6月1日 - 渚滑村(第1次)の一部が分立して下渚滑村(二級村)が発足。(1町10村)
- 昭和9年(1934年)4月1日 - 遠軽村が北海道一級町村制・町制を施行して遠軽町(一級町)となる。(2町9村)
- 昭和12年(1937年)11月1日 - 渚滑村(第1次)が改称して上渚滑村(二級村)となる。
- 昭和13年(1938年)4月1日 - 上湧別村が北海道一級町村制を施行。
- 昭和15年(1940年)
- 1月1日 - 下渚滑村が改称して渚滑村(第2次)となる。
- 4月1日 - 下湧別村が北海道一級町村制を施行。
- 昭和18年(1943年)6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
- 昭和21年(1946年)
- 昭和22年(1947年)
- 昭和23年(1948年)10月1日 - 雄武村が町制施行して雄武町となる。(4町9村)
- 昭和25年(1950年)11月15日 - 下湧別村の一部(字床丹)が常呂郡佐呂間村に編入。
- 昭和26年(1951年)4月1日 - 興部村が町制施行して興部町となる。(5町8村)
- 昭和28年(1953年)
- 昭和29年(1954年)
- 平成17年(2005年)10月1日 - 遠軽町・丸瀬布町・生田原町・白滝村が合併し、改めて遠軽町が発足。(6町1村)
- 平成21年(2009年)10月5日 - 上湧別町・湧別町が合併し、改めて湧別町が発足。(5町1村)
- 平成22年(2010年)4月1日 - 網走支庁が廃止され、オホーツク総合振興局の管轄となる。
脚注
参考文献
- 角川日本地名大辞典 1 北海道
関連項目
紋別郡(遠軽町、湧別町、滝上町、興部町、西興部村、雄武町)
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「北海道小学校の廃校一覧」の記事における「紋別郡(遠軽町、湧別町、滝上町、興部町、西興部村、雄武町)」の解説
遠軽町立新遠軽小学校(1965年) 遠軽町立東社名渕小学校(1980年) 遠軽町立下社名渕小学校(1984年) 遠軽町立社名渕小学校(2006年) 遠軽町立支湧別小学校(2011年) 遠軽町立瀬戸瀬小学校(2021年) 生田原町立岩戸小学校(1955年) 生田原町立石川小学校(1964年) 生田原町立清里小学校(1989年) 丸瀬布町立分岐小学校(1957年) 丸瀬布町立伊奈牛小学校(1963年) 丸瀬布町立上丸小学校(1965年) 丸瀬布町立大平小学校(1969年) 丸瀬布町立南丸小学校(1970年) 丸瀬布町立武利小学校(2002年遠軽町立丸瀬布小学校〈当時:丸瀬布町立〉武利分校となり、2004年廃校) 白滝村立奥白滝小学校(1950年東白滝小と統合し三和小へ) 白滝村立東白滝小学校(1950年奥白滝小と統合し三和小へ) 白滝村立白滝小学校〈旧〉(1964年)※1976年開校の遠軽町立白滝小学校〈当時:白滝村立〉とは別。 白滝村立三和小学校(1975年) 湧別町立緑蔭小学校(1960年信部内小へ統合) 湧別町立川西小学校(1973年湧別町立湧別小学校へ統合) 湧別町立信部内小学校(同上) 湧別町立東湧小学校(同上) 湧別町立登栄床小学校(同上) 湧別町立東芭露小学校(1977年芭露小へ統合) 湧別町立志撫子小学校(1980年芭露小へ統合) 湧別町立計呂地小学校(1987年芭露小へ統合) 湧別町立西芭露小学校(1989年芭露小へ統合) 湧別町立上芭露小学校(1991年芭露小へ統合) 湧別町立芭露小学校(2018年芭露中と統合し湧別町立芭露学園へ) 上湧別町立旭小学校(1963年) 上湧別町立上富美小学校(1986年湧別町立富美小学校〈当時:上湧別町立〉へ統合) 滝上町立大正小学校(1954年) 滝上町立白鳥小学校瑞穂分校(1955年) 滝上町立拓雄小学校(1968年) 滝上町立奥札久留小学校(1971年) 滝上町立雄柏小学校(1973年) 滝上町立滝奥小学校(1973年滝上町立滝西小学校滝奥分校となり、1974年廃校) 滝上町立上白鳥小学校(1974年) 滝上町立上雄柏小学校(1975年) 滝上町立札久留小学校(1996年休校、2005年廃校) 滝上町立滝下小学校(2006年休校、2014年廃校) 滝上町立白鳥小学校(2013年) 滝上町立滝西小学校(2014年) 興部町立豊畑小学校(1951年上瑠橡小から改称、1975年豊野小へ統合) 興部町立住吉小学校(1983年興部町立沙留小学校へ統合) 興部町立朝日小学校(1985年秋里小へ統合) 興部町立宇津小学校(1998年休校、2010年廃校) 興部町立秋里小学校(2002年休校、2010年廃校) 興部町立富丘小学校(2010年) 興部町立豊野小学校(2012年) 西興部村立忍路子小学校(1971年西興部村立西興部小学校へ統合) 西興部村立中興部小学校(1975年西興部小へ統合) 西興部村立上藻小学校(1976年西興部小へ統合) 西興部村立中藻小学校(1979年西興部小へ統合) 雄武町立上沢木小学校(1968年) 雄武町立中幌内小学校(1971年) 雄武町立上雄武小学校(1976年休校、1987年雄武町立共栄小学校へ統合) 雄武町立中雄武小学校(1987年共栄小へ統合) 雄武町立興和小学校(1989年) 雄武町立上幌内小学校(1990年共栄小へ統合) 雄武町立栄丘小学校(2010年) 雄武町立幌内小学校(2016年) 雄武町立豊丘小学校(2022年雄武小へ統合)
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