大日本武道宣揚会とは? わかりやすく解説

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大日本武道宣揚会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/07 08:35 UTC 版)

大日本武道宣揚会(だいにっぽんぶどうせんようかい、1932年 - 1936年)は、戦前の日本において、武道の宣揚を目的として活動していた団体。合気道の修練を主として、剣道の修行も行っていた[1]。新宗教「大本」の外郭団体。

概要

合気道の開祖・植芝盛平は大本信者であり、大正後期から昭和初期にかけて大本内で武道を指導していた。

1932年(昭和7年)8月13日、大本の外郭団体「昭和青年会」の武術部(主任・植芝盛平)が独立し、大日本武道宣揚会が発足する。この日は大本教祖・出口王仁三郎の誕生日(旧暦7月12日)で、大本の聖地・天恩郷(京都府亀岡)で聖誕祭が開かれた。大日本武道宣揚会の総裁には出口王仁三郎が、会長には植芝盛平が、顧問には出口日出麿(王仁三郎の娘婿)のほか、大日本国粋会理事の蓮井継太郎、剣道範士の中山博道、医学博士の二木謙三、陸軍少将の三浦真が就任した[2]

会則第二条に「建国の大精神に基き大日本武道の宣揚を為す」[3]ことが目的だと謳われており、その「建国の大精神」とは当時王仁三郎が盛んに唱導していた「皇道」(王仁三郎によると皇道とは世界統一の道である)のことであった。

大日本武道宣揚会趣意書には会の性質が次のように表されている。

 真の武は神より来たるものである。武は戈(ほこ)を止(とど)めしむる意であって、破壊殺傷の術は真の武ではない。否かかる破壊の術を亡ぼして、地上に神の御心を実現する破邪顕正の道こそ真の武道である。

 神国日本の武道は惟神の道こそ真の武道大道より発して皇道を世界に実行する為に、大和魂の誠を体に描き出したものである。(中略)

 わが大日本武道は神の経綸、皇道の実現のために惟神の人体に表されたるものであって、蔵すれば武無きが如く、発すればよく万に当る兵法の極意を尽すものである。

 昭和維新の大業は政治経済のみでもゆかず学術のみでもゆかず、また精神のみでも充分ではない。われわれは神より下されたる真正の大日本武道を天下に宣揚してこの大業成就の万分の一の働きを相(あい)共にさして頂きたいのである。神より発したものは神に帰る。

 真の武は神国を守り、世界を安らけく、人類に平和をもたらすものである。 — 『皇道大本事務便覧』pp.139 - 140

また、当時の大本の刊行物で大日本武道宣揚会が次のように紹介されている。

 そもそも真正の武は大神の神勇の発現であって、その背後には必ず神愛と神智と神親とが伴っている。故に人を殺し敵を亡ぼさんが為にこれを用うるに非ずして、人を生かし敵を改過遷善せしむるが為にこれを用い、更に大にしては国を活かし世を救うが為にこれを行使するものである。(中略)

 大日本武道宣揚会はこの本義に則り、真正なる大日本武道即ち神より出づる武道の宣揚に精進しているのである。

 現在本会においては会長植芝守高氏の大神より神授せられたる相生流合気武術を主として修練し(以下省略) — 『皇道の栞』p.482

つまり植芝盛平の合気道を「真正の武道」として位置づけていた。

大日本武道宣揚会では会員に「道士」「宣士」「助士」という称号を授けて[4]、武術の教授を行わせた。

会の総本部は亀岡の天恩郷に置かれた。仮の道場で武術の講習が行われ、また、全国各地へ講師を派遣された。その活動の結果、発足から半年の間に50の支部と1500人の会員ができた[5]

1933年(昭和8年)5月1日、総本部と道場が亀岡・天恩郷から、兵庫県竹田にある大本の施設「愛善郷」へ移転した。前年8月に竹田城跡が竹田町から大本へ献納され、そこが愛善郷(大本竹田別院)と名づけられのである。愛善郷には会員が常に50~60人寝泊まりし、自給自足で「武農一如」の集団生活を送った[6]

竹田移転後も会は勢いよく発展し、同年12月末には支部数が129、会員数が2488人へと増加した[7]。翌年4月の総会では会員数5千人と発表された[8]

1935年(昭和10年)7月1日、会長が植芝盛平から出口日出麿に変更になった。植芝盛平は「範主」として武道の指導にあたることになった[9]

同年12月8日、第二次大本事件が勃発。出口王仁三郎を始め大本幹部はことごとく検挙された。当局の取り調べを受けた者は3千人以上、起訴された者は61人にのぼる[10]。しかし植芝盛平は会長を退いており、また弟子に警察高官がいて人間的信頼関係があったため、一両日取り調べを受けただけで起訴はされなかった[11] [12]

1936年(昭和11年)3月13日、当局は大日本武道宣揚会を含む8つの大本関連団体に結社禁止の命令を出した。これによって大日本武道宣揚会は解散した。

参考文献

  • 大本竹田別院五十年誌編纂会 編『大本竹田別院五十年誌』、大本竹田別院、1987年、pp.136 - 144。
  • 皇道大本本部 編『皇道大本事務便覧』、天声社、1933年、pp.139 - 152
  • 有留弘泰 編『皇道の栞』、天声社、1934年、pp.481 - 484
  • 大本七十年史編纂会 編『大本七十年史 下巻』、宗教法人大本、1967年
  • 植芝吉祥丸『植芝盛平伝』、講談社、1977年

脚注

  1. ^ 『大本竹田別院五十年誌』p.137
  2. ^ 『大本竹田別院五十年誌』p.137
  3. ^ 『皇道大本事務便覧』p.140
  4. ^ 会則第七条
  5. ^ 『竹田別院五十年誌』p.138
  6. ^ 『植芝盛平伝』p.221
  7. ^ 『大本竹田別院五十年誌』p.141
  8. ^ 『大本竹田別院五十年誌』p.142
  9. ^ 『竹田別院五十年誌』p.143
  10. ^ 『大本七十年史 下巻』p.472
  11. ^ 『竹田別院五十年誌』pp.164 - 165
  12. ^ 『植芝盛平伝』pp.226 - 232

関連項目

外部リンク




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