若き日のヘンリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 16:13 UTC 版)
「ヘンリー5世 (イングランド王)」の記事における「若き日のヘンリー」の解説
ヘンリー5世はウェールズのモンマスにあるモンマス城のゲートハウスで生まれた。父はヘンリー・オブ・ボリングブルックこと後のヘンリー4世、母は第7代ヘレフォード伯(英語版)ハンフリー・ド・ブーン(英語版)の次女で当時16歳のメアリーである。彼が生まれた時期のイングランドは父の従兄・リチャード2世の統治下にあり、王位継承からはかなり離れていた。そのため出生日さえはっきり分かっておらず、1386年か1387年の8月9日か9月16日の説が有力とされている。 幼少期はオックスフォード大学クイーンズ・カレッジで勉強したが、1398年、12歳の時に父がフランスに追放されたため短期で終わる。既に母も他界していたヘンリーを国王リチャード2世は引き取り、優遇した。 再起を図る父の率いるランカスター派が1399年にイングランドに上陸すると、リチャード2世は捕らえられてしまう。こうして父がヘンリー4世として即位し、彼もプリンス・オブ・ウェールズに叙せられる。そして同年11月10日にランカスター公に叙された。 数年の後、彼はイングランド軍の一部の指揮を実際に執るようになった。1403年のグリンドゥールの反乱に際しては自分の軍隊を率いてウェールズに向かい、さらにこの反乱に加担したヘンリー・パーシー(ホットスパー)に対しても、取って返して父の軍と合流し、シュルーズベリーの戦い(英語版)で顔に傷を負いつつも、打ち破った。
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