九州の大名
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天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは中立を保ったが、この戦いで秀吉が柴田勝家を破ると、毛利氏は日和見路線を捨て、秀吉に従属した。この時、隆景は異母弟で養子の小早川元総(後に秀包と改名)を人質として秀吉に差し出している。 その後は秀吉に積極的に協力し、天正13年(1585年)の四国攻めでは伊予国の金子元宅を討ち取るなどの功績を挙げた。豊臣政権は大名統制策として隆景に伊予一国を与えて独立大名として扱ったが、隆景側は一度毛利家に与えられた伊予を改めて受領する形で、毛利家の一武将としての体裁を保った。湯築城に入城した隆景は大洲城に秀包を配置するなど伊予の統治を開始し、河野通直を道後に隠居させて旧河野家家臣や西園寺公広とその家臣を配下とした。ただし、約2年で終わる伊予領主の間も本拠地は三原のままであった。なお、隆景の伊予支配は素晴らしく、ルイス・フロイスは「隆景は深い思慮をもって平穏裏に国を治め、日本では珍しい事だが、伊予の国には騒動も叛乱も無い」と称賛している(『フロイス日本史』)。 天正14年(1586年)、九州征伐にも参加し、戦後に秀吉から筑前・筑後・肥前1郡の37万1,300石を与えられた。しかし隆景は毛利・吉川・小早川三氏の所領は中国に於いて既に8ケ国に及んでおり、更に領国を加えると公役を十分勤めることができないとし、これを辞退しようとした。これに対して秀吉は、それならば筑前・筑後を豊臣家の蔵入地とし、隆景をその代官にしようとしたが隆景は重ねて辞退した。輝元はなお若く、元春もすでに死去していることから、毛利家の家運を維持するためにも輝元の側を離れて九州に住むことはできないと述べた。そのうえで、筑前・筑後には他の領主あるいは代官を置いて政務にあたらせ、隆景は佐々成政と交代で1年もしくは半年ずつ在陣して九州の鎮定に当たればどうだろうか、と述べた。しかし隆景の辞意は認められず筑前・筑後を領して在国することになり、これは隆景が独立大名として豊臣政権のもとに組み込まれていく契機でもあった。 天正15年(1587年)、隆景の移封によって竹原に移されていた河野通直が病死した。隆景が九州に通直を迎え入れる用意をしている最中での死であったことや、小早川領として残されていたとはいえ隆景も重臣もいない竹原への移送、病死の経緯の不審さから、秀吉の命令によって殺された可能性がある。また、同じ頃に西園寺公広も殺害されていることから、小早川家を伊予から九州へ移封させた上で隆景から引き離された通直や公広を殺害することで、小早川家を含めた伊予の旧勢力を一掃するという豊臣政権の方針があった可能性も指摘されている。 天正16年(1588年)7月、上洛した際、秀吉から羽柴の名字と豊臣の本姓を下賜された。 天正18年(1590年)、小田原征伐にも従軍し、この際は徳川家康の三河岡崎城を預かっている。 文禄元年(1592年)に文禄の役が始まると、6番隊の主将として1万人を動員して出陣し全羅道攻めを行うが、抵抗を受け本格的な攻略を行わないうちに援軍に来た明軍に対応するために京畿道へ配置転換され、文禄2年(1593年)に碧蹄館の戦いにおいて明軍本隊を立花宗茂と共に撃退した。
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