九州の大名とは? わかりやすく解説

九州の大名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 11:05 UTC 版)

小早川隆景」の記事における「九州の大名」の解説

天正11年1583年)の賤ヶ岳の戦いでは中立保ったが、この戦いで秀吉柴田勝家を破ると、毛利氏日和見路線捨て秀吉従属した。この時、隆景は異母弟養子小早川元総(後に秀包と改名)を人質として秀吉差し出している。 その後秀吉積極的に協力し天正13年1585年)の四国攻めでは伊予国金子元宅討ち取るなどの功績挙げた豊臣政権大名統制策として隆景に伊予一国与えて独立大名として扱ったが、隆景側は一度毛利家与えられ伊予改め受領する形で、毛利家一武としての体裁保った湯築城入城した隆景は大洲城に秀包を配置するなど伊予統治開始し河野通直道後隠居させて旧河野家家臣西園寺公広とその家臣配下とした。ただし、約2年で終わる伊予領主の間も本拠地は三原のままであった。なお、隆景の伊予支配素晴らしくルイス・フロイスは「隆景は深い思慮をもって平穏裏に国を治め日本では珍しい事だが、伊予の国には騒動叛乱も無い」と称賛している(『フロイス日本史』)。 天正14年1586年)、九州征伐にも参加し戦後秀吉から筑前筑後肥前1郡の371,300石を与えられた。しかし隆景は毛利吉川小早川三氏の所領中国に於いて既に8ケ国に及んでおり、更に領国加えると公役を十分勤めることができないとし、これを辞退しようとした。これに対して秀吉は、それならば筑前筑後豊臣家蔵入地とし、隆景をその代官にしようとしたが隆景は重ねて辞退した。輝元はなお若く、元春もすでに死去していることから、毛利家家運維持するためにも輝元の側を離れて九州に住むことはできない述べたそのうえで筑前筑後には他の領主あるいは代官置いて政務にあたらせ、隆景は佐々成政交代1年もしくは半年ずつ在陣して九州鎮定当たればどうだろうか、と述べた。しかし隆景の辞意認められ筑前筑後領して在国することになり、これは隆景が独立大名として豊臣政権のもとに組み込まれていく契機でもあった。 天正15年1587年)、隆景の移封によって竹原移されていた河野通直病死した。隆景が九州通直迎え入れる用意をしている最中での死であったことや、小早川領として残されていたとはいえ隆景も重臣もいない竹原への移送病死経緯不審さから、秀吉命令によって殺され可能性がある。また、同じ頃に西園寺公広殺害されていることから、小早川家伊予から九州移封させた上で隆景から引き離され通直や公広を殺害することで、小早川家含めた伊予の旧勢力一掃するという豊臣政権方針があった可能性指摘されている。 天正16年1588年7月上洛した際、秀吉から羽柴名字豊臣本姓下賜された。 天正18年1590年)、小田原征伐にも従軍しこの際徳川家康三河岡崎城預かっている。 文禄元年1592年)に文禄の役が始まると、6番隊の主将として1万人を動員して出陣し全羅道攻めを行うが、抵抗を受け本格的な攻略行わないうちに援軍に来た明軍対応するために京畿道配置転換され、文禄2年1593年)に碧蹄館の戦いにおいて明軍本隊立花宗茂と共に撃退した

※この「九州の大名」の解説は、「小早川隆景」の解説の一部です。
「九州の大名」を含む「小早川隆景」の記事については、「小早川隆景」の概要を参照ください。

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