九州の情勢と「日本国王」良懐とは? わかりやすく解説

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九州の情勢と「日本国王」良懐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 09:33 UTC 版)

南北朝時代 (日本)」の記事における「九州の情勢と「日本国王」良懐」の解説

九州では、多々良浜の戦い足利方に敗れた菊池氏などの南朝勢力と、尊氏残した一色範氏仁木義長などの勢力争い続けていた。南朝勢力強化するために後醍醐天皇皇子である懐良親王征西将軍として派遣し北朝勢力攻防繰り返した観応の擾乱が起こると足利直冬加わり、三勢力抗争する鼎立態となる。しかし、文和元年/正平7年1352年)に足利直義殺害されると、直冬中国去った延文4年/正平14年1359年筑後川の戦い大保原の戦い)では、南朝方の懐良親王菊池武光赤星武貫宇都宮貞久草野永幸らと北朝方の少弐頼尚少弐直資父子大友氏時城井冬綱両軍合わせて10万人が戦ったとされる。この戦い敗れた北朝方は大宰府逃れ九州この後10年ほど南朝支配下に入ることとなった足利義詮死に端を発して九州南朝勢力正平23年/応安元年1368年2月東征の軍を起こし長門周防方面進軍開始するものの、大内氏阻まれ頓挫した。 またこの頃朝鮮半島中国沿岸などで倭寇前期倭寇)と呼ばれる海上集団活動し始めており、文中元年/応安5年1372年懐良親王倭寇取り締まり条件明朝から冊封を受け、「良懐」として「日本国王」となるものの、室町幕府今川貞世(了俊)を九州派遣して攻勢をかけ大宰府奪回する。

※この「九州の情勢と「日本国王」良懐」の解説は、「南北朝時代 (日本)」の解説の一部です。
「九州の情勢と「日本国王」良懐」を含む「南北朝時代 (日本)」の記事については、「南北朝時代 (日本)」の概要を参照ください。

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